子之神社(ねのじんじゃ)は『新編武蔵風土記稿』によると小沢郷7村の総鎮守であったと伝えられている由緒のある神社です。小沢郷7村とは川崎市域の菅・細山・金程(かなほど)、隣接する稲城市域の坂浜村(多摩郡)付近にかかる範囲と推定されています。
拝殿 拝殿の中奥に本殿があります
子之神社は 天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、兵火にあって焼失しましたが江戸末期に菅村の領主である旗本の中根氏が、子之神社を管轄していた法泉寺(ほうせんじ)に田畑を寄進し享保13年(1728)に社殿を造営しました。
元禄3年(1690)菅村は天領となり多摩郡小沢郷から橘樹郡稲毛領に編入され伊奈半十郎忠篤の治めるところとなりました。伊奈氏の信奉は深く菅村を守護する鎮守として根ノ上社・根上明神・根之神社などと呼ばれていました。
拝殿の彫刻
拝殿の彫刻
成田山新勝寺の額堂(重要文化財)の彫物を担当した江戸・深川の彫工 後藤勇次良郎経慶(ごとうゆうじろうつねよし)が手掛けたものです。
享保13年(1728)佐保田与一他2名が願主となり本殿と拝殿が造営され、その後本殿は江戸時代末期、拝殿は文化8年(1811)再建され現在に至っています。神仏分離令により明治6年(1877)村社に列せられ、社名を現在の「子之神社」に改め現在にいたります。
御神木の由来
樹齢3世紀の敷地内の椎の老木が古死寸前、消滅を惜しみ樹皮の一部を社前に祭り椎 を神霊として永く世人の尊崇を享けんとするもの也
昭和52年10月9日 氏子会会長 小塚信一
本殿
本殿の正面左右の角柱には昇り龍と降り龍の彫物が巻き付いています。側面には「三国志の桃園の誓い」「俵藤太の大百足退治」「源頼光の金太郎、乳母との出合」の場面、柱と柱を繋ぐ梁にも「龍」等精緻な彫物装飾で 埋め尽された社殿です。
江戸の名のある彫工師の作と推定されますが、子之神社の説明によれば「年代と彫り方から拝殿を担当した 後藤勇次良郎の師匠 後藤富五郎かとも推測される。」とあります。
川崎市重要歴史記念物に指定され普段は覆屋(おおいや)の中で厳重に保護されていますが、2026年11月3日この日だけ30年ぶりに一般公開され 参拝いたしました。
写真撮影は出来ないのですが、タウンニュース(https://www.townnews.co.jp/0203/2022/09/16/642269.html#)や子之神社のパンフレットで参照できます。





