語り 吉田 哲(さとる)晶子(しょうこ)ご夫妻 元「池田屋」店主夫妻
聞き書き 勝野井 央子 稲田郷土史会&かわさき聞き書き隊
2026年8月17日
池田屋は明治2年の創業。今回の登戸区画整理で145年の商売を終えた。
昔懐かしい品々と、語り尽くせない一家の歴史があった。
主な登場人物の系図
吉田福治(曾祖父)―良男(祖父)-光(父)―哲(本人)
盛男(大叔父) 晶子(本人の妻)
西岡功(大叔父)
哲さんの話
登戸は、江戸時代、津久井道の宿場町として旅籠屋が多かった。現在残っているのは柏屋だけですが、職人の町としても栄えており、煮売り屋が多かった。
池田屋は、明治2年、呉服や雑貨を扱う「何でも屋」を始めました。
初代から斎藤が3代続き、4代目に吉田福治(曾祖父) 5代目は良男(祖父)
6代目が光(父) 7代目が哲(私)です。
「池田屋」の名前の由来は分かりません。屋号と名字は関係ありませんので。
祖父(良男)
農村小売商について、先進的な考えの持ち主で、稲田ロータリークラブで「体験より得たる農村小売り商の一更生策」という弁論で優勝し、第2回全国青年雄弁大会で、神奈川県代表として演壇に立ち、優勝しました。昭和10年のことです。
「農村の小売商が仲間を募り信用組合の方法で資金難を緩和し、納税組合を結成し、不景気の中、納税し、堅実な生活を送っている」という内容です。
注)その迫力ある実況が残っているので文末に載せました。
後に稲田ロータリークラブの会長になりました。
登戸の稲荷神社の崇敬会の会長もしていました。
専売品のたばこや塩を扱っていました。
当時、多摩川沿いに登戸競馬場があり、そこにたばこを卸していました。
買い物客は、柿生方面や狛江からも来ていました。
戦時中は物資不足だったのですが、たばこと塩で生活はある程度安定していました。
大叔父(盛男)は、登戸の駅前で、吉田会計事務所をやっていました。
この大叔父により、池田屋は合資会社となりました。
祖父たち(良男、盛男)は太平洋戦争に行き、幸い二人とも復員しました。
盛男は、沖縄戦生存者の一人として戦後3回、沖縄に散華した戦友の慰霊のため戦績を訪ね歩き、
昭和50年(終戦30周年)オートスライド「足音―沖縄線の回想」を製作し
昭和52年(33回忌)には、沖縄で捕虜生活をしている時に書いた「沖縄戦記斬込隊員の手記」と 中国出兵の時の「中支戦線従軍記」を出版しました。
もう1人の大叔父(功 西岡家の養子となった)は三井物産に勤務し、外国勤務でテヘランや北京からの、当時としては珍しいお土産が、今も残っていますね。
父(光)は、地道に商売をしていました。
浅草に仕入れに行き、いったん座ると立ち上がれなくなるほどの荷物を背負い、電車に立ったまま乗って帰って来てたそうです。
プラスチック製品が増えて、店頭がカラフルになりましたね。
当時は、明治大、専修大の下宿生が、机、本棚、こたつなど、生活用品一式を買いに来てくれていました。
私(哲)は、大学を出て、トヨタの販売店に勤めたのち、家に戻りましたが、家具、家庭用品、日用雑貨の売り上げは少なくなり、子供たちの学費もかかり始めました。
店の一部を、コンビニ(ファミリーマート)に借りてもらいました。
インターネットの時代となり、もう商売も小売りの時代でないと思い始めた頃、
区画整理で、移転建て替えの話が、ようやく近辺に回ってきました。
これは、有り難い話だと思い、店をやめ、マンションを建てることにしました。
晶子さんの話
私たちは昭和62年に結婚しました。
結婚した時には、区画整理のことは分かっていました。
家は古くて、修理したい箇所はいっぱいありました。
「川崎市から、修繕をしてはいけない」と言われていましたが、区画整理の期間が長すぎて、手直しせざるを得ませんでしたね。
区画整理で、下水道が完備されたのが、一番ホッとしたことでした。
先祖が残した物を捨てられないので、川崎ミュージアムに古い台帳、写真、地図、ストーブ,懐炉などを預けましたが、まだまだ家には、古い写真や昔の家の図面などをいっぱい残しています。
池田屋の看板の写真 見てください。
上部の金色の池田屋 TEL 26 は鎌倉彫で、ずっと残してきましたね。
少し見栄っ張りだった祖父(良男)がお金をかけて作らせたものなので。
蔵もその中身も最後まで残していました。
旧津久井道の痕跡を残したいと思い、
マンションのドアの前と内側、マンションの裏手のコンクリート地面に、細く黒い線を刻みました。
向こうのパン屋さん(Petit House)が、道路に斜めに建っているでしょう。新しい道ができる前(2008年)に、旧津久井道に面して建てたからなの。
あれも津久井道の痕跡だわね。
哲さん
溝口は大地主が多く、発展に賛成で,マルイが入り,ノクティができた。
小杉は広い工場跡地で、大々的に建設ができた。
登戸は小地主が多く、「総論賛成、各論反対」という方が多く、統一が図れず、思い切った発展ができなかった。
街が出来上がるまで40年以上かかるでしょう。
稲田ロータリークラブで「体験より得たる農村小売り商の一更生策」


