心の置き場

 歴史とITに興味を持ち囲碁を趣味とし、私の著作・風土記等を掲載したサイトです。 赤文字の箇所をクリックすると内容を見る事が出来ます。

1. 稲田郷土史会

 私が所属している稲田郷土史会は、川崎市多摩地域の郷土歴史や郷土文化の調査、先人の残した文化財や記録の保存、機関誌「あゆたか」の発行等啓蒙活動や、定期的に史歴探訪を行っているグループです。 例会・見学会等体験参加をお待ちしています。

 問い合わせ先 inadakyoudo@gmail.com

 事務局 川崎市立多摩図書館内 ☎ 044 935 3400

 稲田郷土史会ホームページ 

関東・江戸風土記  

 豊臣秀吉の1590年小田原征伐後、関東移封となった徳川家康は政治・軍事・経済の要として、江戸を定めました。  

 家臣の活躍により家康の関東経営は着実に軌道にのり更に1603年征夷大将軍以後江戸は発展し、およそ130年後8代将軍吉宗の時代には、公衆衛生が行き届いた人口100万人の世界一の大都会となりました。そのような時代の江戸や関東の風土や当時の人々の活躍を少しでも知りたいとの思いで書き著し、開発された江戸の情景が見て分かるよう錦絵で示しました。

稲田郷土史会 機関誌 あゆたか 61号、62号に掲載され、第1部は江戸初期前後の、第2部は利根川の治水・多摩川の用水路開発を中心とする風土記です。

八王子私説風土記

 小田原征伐で北条は八王子城で激しく抵抗したのですが陥落し3週間後に小田原の北条は降伏しました。家康が旧北条領地に移封されると、武田の遺臣で家康に仕えた代官頭大久保長安が神社・寺の保護、治水、道路建設等行い現在の八王子の骨格を開発して荒廃し治安が悪化した元八王子城下町を移住させました。 

 以降八王子は人々の活躍により甲州筋の江戸守りの要衝となり、織物産業の興隆等発展を遂げました。そのような八王子の風土や人々の活躍を書き著しました。

大磯歴史探訪

 稲田郷土史会の大磯探訪に参加し、明治の息吹を感じた印象深い探 訪を私の想いも込めた記録です。

川﨑多摩川文学風土記

関東平野の西端を流れる多摩川では草木が育ち、鮎等の魚が遊泳し、水鳥が飛来してくる豊かな自然の情景や豊富な水に支えられている人達の暮しが万葉の時代から現在も歌に詠まれています。

武蔵の国と西国との国境となる多摩川や川崎は離別の地として万葉の時代から惜別の歌が詠まれてきました。多摩川が津久井街道・大山街道・中原街道・東海道と結節した宿場町は商業が栄え、さらに文芸にも影響を及ぼしています。川崎北部丘陵の情景を詠う詩歌や小説から、田園地帯であった昔の情景が思い浮かびます。

 ここを舞台とする小説、歌、詩から、川崎・多摩川の文学・詩歌の風土を考察します。

川崎・多摩川文学風土記

 五反田節

 この風土記では紹介していない古民謡「五反田節」を五反田節保存会の金崎氏による揺を動画で紹介しています。 

  五反田節は今から約800年前の鎌倉時代、川崎北部が武蔵野国稲毛領であった時代、領主である稲毛三郎重成が源頼朝の妻政子の妹を正妻に迎えその婚礼の場で三浦の豪族武将の手の者が謡い上げたのが五反田節の始まりと言われています。その後郷土民謡「これまさ」として伝わり生田地区では「五反田節」として定着し、祝いの酒席で謡い伝えられています。

  五反田節を謡う金崎氏

・坂田英男氏コーナー

  坂田氏は 川崎市高津区 二子に在住。漢詩を得意とし詩吟を嗜み囲碁を  趣味とする現代の歌人です。

  春と晩秋の多摩川の情景、人が去り柿が残された晩秋の東北の情景、故郷である神流(かんな)川が流れ妙義山・榛名山・赤城山に囲まれ、南は関東平野が広がる埼玉県神川町たの情景を詠んでおられます。

・勝野井央子さんコーナー

勝野井さんは川崎市登戸に在住。 「稲田郷土史会」・「かわさき聞き書き隊」に所属しておられます。2015年多摩区民館ギャラリーで行われた「登戸宿河原完全写真化計画」という当地で失われた事物の写真展を観て話を書き残すのも、郷土史会の活動の一つ考えて 登戸・向ヶ丘遊園市域で区画整理を伴なった大規模な開発事業が始まると、地域で仕事をしてこられた方々のお話をお聞きし2021年から「聞き書き」を始められました。

聞き書きとは、話し手に質問して話を録音しそれを文章に書き起こして、話し手の人生経験、地域の文化や歴史を残すのが目的です。聞き書きでは「他人への非難・中傷や反社会的な言動はしてはならない」という大切な決まりがあります。対話を重ね、話し手の思いや価値観を引き出す協働作業により、話し手の言葉や語り口が生き生きと伝わる次世代への贈り物として、書き言葉とは異なる独特の雰囲気を持つ文章を作成します。

お読みいただき、ご自分も「聞き書き」の話し手となり、「地域での個人史を残したい」と思われた方は、稲田郷土史会にご連絡ください。  勝野井 央子

聞き書き一覧  話し手の皆様から実名掲載の許諾を得ております。

 1 区画整理で街がよくなるといいね

 2 区画整理事務所の説明

 3 役所が頑張って、新しい街ができるのは、いいと思う

 4 100%住み良い街 登戸は100年後素晴らしい街になるよ    石橋屋酒店

 5 区画整理で良い波をしっかり掴んでいきたいと思います  半ザム

 6 昔の登戸は自然がいっぱいでした             公文クリニック

 7 若い家族層が増えいろんな世代が楽しめる街に成ればいいね   東屋精米店      

 8 登戸で商売を始めて70年                ことぶきや模型店

 9 江戸時代から代々農業をやってきました 今後次世代が問題です 石井果樹園

 10 我が故郷 登戸                      原嶋 晃さん

   

2 ITCL

 私が所属しているITCL(Information Technology Competence Laboratory)は情報技術の根幹、応用分野等を研究しているグループで現在もアクティブに活動を続けています。

2.1 何故アルファ碁は勝てたのか 

 グーグルが買収した英国のAI研究者グループ会社が開発した「アルファ碁」がレビューし世界の囲碁強豪「イ・セドル」を寄せ付けず勝ちました。

 囲碁を趣味とする私は AI囲碁「アルファ碁」の原理を調査し、ITCLで発表させて頂きました。

2.2 国際状況と安全保障

  少し前の論文ですが、現在の国際状況(中国)を予見しています。

  激動の国際状況

 丁度民主主義社会か専制主義社会のいずれが優位に立つのかの分岐点に立っていた時期に表しました。トランプ前政権ではアメリカファーストをベースに経済・貿易面で台頭する中国との対立が際立しましたが、バイデン政権になり専制政治か民主主義どちらが優っているか本質的な争いとなってきました。

 中国が台頭すると民主主義は勢いを失って専制主義・国家主義・反自由主義が急速に高まり、今民主主義は2つの挑戦(経済・軍事)に直面しています。

 中国の姿

 GDPを偽装した中国経済、不動産バブル、不透明な債務、戦狼外交、技術の攻防、日本の安全保障等を述べています。

3 心の旅

中仙道近江路を歩く

地元の人たちが大切にしておられる道を「歩かさせて頂く」との思いで街道を歩いています。

「街道歩き」は修行の様に思えます。 呼吸を整えひたすら足を一歩一歩運んでいくと、我もなく人もなく、呼吸だけが立ち上がって、身体が運ばれていく。 中仙道を歩いてそんな事を気づかせてくれました。

中仙道近江路 心の旅

 街道の路傍にある石仏や馬頭観音、風雪に耐えてきた常夜灯
苔むした石畳、刻字された石の道標、墓石、渡し場跡
句碑や歌碑、庚申塔、高札場跡、古神社、古城跡、
格子や白壁の趣ある家々の町並み、本陣跡、宿の名残
そして松並木や一里塚
 先人が築いた歴史・文化を知見し、日本の歴史を学べる事が
街道歩きの旅の魅力
であり、心の旅となりました。
「通らせて頂く」との思いで、地元の方と心通わせながら
大切にしておられる歴史の道を歩きました。
街道に残されたこれらの史跡を味わい、
人々が往来した昔の日々に想いを馳せながら歩きました。

紅葉の京都

 落ち着ついた19のお寺の紅葉に包まれた情景です。

八重島諸島の旅

 手つかずの自然が多く残っている貴重な島々の写真記録です。

   石垣島のサンゴ礁 パラグライダーからの空写

五島列島の旅

 幕府の禁教令により長崎のキリスト教徒が信仰を続け隠れ住んだ五島列島。後に信者が建てた教会を会社の同期と訪ねた旅です。

 250年にも続いた迫害の後信徒の方々が想いを込めて建立された教会を見せて頂きました。

         奈留教会

 秋の三渓園   動画

4 故郷

  私の故郷、滋賀県大津の情景です。

紅葉の坂本

日吉大社 三石橋の一つ 二宮橋  日吉大社は比叡山延暦寺を守護する歴史ある神社です。帰省し此処を訪れるのが楽しみでした。

叡山・坂本・八瀬  

   千日回峰行を萬行された 叡南阿闍梨 尊師にお会い出来ました。 

 以前叡南尊師の説法をお聞きかせ頂だいた後、尊師の執務室で              親しくお話させて頂けたことがあり一生の思い出となりました。

   文殊堂より比叡山延暦寺根本中堂を望む

坂本       動画

比叡山延暦寺の寺院、日吉大社、明智光秀の菩提寺西教寺、石積みの参道、山辺の道、心落ち着く所です。

我が故郷 登戸

  原嶌 晃さん  2025年6月24日

原嶌家の屋号は「小間屋」です。    

 親戚の調べによると、江戸時代後期に、拝島(東京都昭島市)で醤油問屋の支配人をしていた祖先が、この登戸の地に住まいを構えたのが、我が家の始まりだそうです。私で6代目となります。

 もともとは農家で、繭つくりから、桃や梨の果実栽培をしておりましたが、戦時中、食料増産で、梨畑は田圃に切り替えられ、稲作に転じました。

しかし、「小間屋」の屋号からわかるように、農業をしながらも、小間物屋をしておりまして、今でいう化粧品業ともいえるもので、煙草や一部薬も扱っていたそうです。このような商いの傍ら、質商(安政年間~)も営んでいたそうです。人の物を預かるということからがありました。 

その蔵も、代々年を重ね老朽化が進んだことにより、昭和32年に地元の石澤石材店さんへ依頼し、質蔵土蔵の後ろに大谷石で蔵を新築したそうです。

今回の区画整理時にその石蔵を残すという事で、曳家により、現在の場所へ移動をしました。当時の専門家から「一つ一つ石に番号を振り、取り壊し、もう一度初めから積み直さないとダメだ」と言われたことを記憶しております。曳家という現代技術の素晴らしさもその時思い知らされました。

これからも、登戸で唯一の大谷石の石蔵を大切に保存していきたいと思っております。(注 土蔵は井出家にもあります) 

父 兼房 & 登戸区画整理事業

 今は明治大学生田校舎の一画になって居ますが、そこに、戦時中、「第九陸軍技術研究所」(通称:陸軍登戸研究所)があり、父はそこの「経理給与係」として働いていました。昭和20年2月3日に召集令状を受け、溝の口の陸軍東部第62部隊に入隊し、伍長に昇任と同時に終戦をむかえ、天皇陛下の詔勅を聞いたそうです。

 父は、その後、地元の皆さんのお陰で市議会議員となり、この区画整理事業に携わることとなりました。昭和50年6月に地元町会から代表者数名の推薦をいただき「登戸地区都市整備懇談会」を発足させ、街づくりの手法のうち「区画整理事業」・「再開発事業」・「街路事業による単独買収」等を皆さんで検討したそうです。 昭和56年4月、事業手法を「土地区画整理事業」とすることで懇談会と川崎市は合意し、登戸のまちづくりの基礎ができたそうです。

昭和62年9月には川崎都市計画事業 登戸土地区画整理事業の都市計画(案)の縦覧が行われ、昭和63年3月都市計画決定が告知され、9月事業計画が決定、スタートし来年 令和8年3月にすべての事業が終了する運びとなる。これは、亡くなった父にとっても、息子の私にとっても、感慨深いことです。

これからの登戸に想う事

「温故知新」の気持ちを持ち、昔ながらの職人の街・登戸、そして津久井道の宿場町であった登戸、その歴史を語れる方と、新しくこの登戸を故郷として選んでくれた方々との触れ合いを大切にしていきたいと考えています。登戸ならではの商店街の活性化、それは新しい知見を持った方とのコラボ等でやり方をみんなで考えていければと思います。

  注)今回は聞き書きではなく、原嶌氏が書かれた原稿です。

リターン

区画整理事務所の説明

登戸区画整理事務所の説明 2021年7月19日 聞き取り

1 事業の目的

 多摩区登戸地区は都心に近く、交通もJR南武線、小田急線が通り、利便性がよく、高度経済成長とともに人口が急激に集中し、今まで田んぼ、畑だった所が急激に市街化しました。その結果、道路は狭いし、下水道も入っていないんだけど低層の木造住宅が密集し、防災や衛生などの生活環境に大きな課題がありました。例えば、消防車が入っていくのに、道幅のないような道路で、木造住宅が密集して連なっている状態が、区画整理をやる前にありました。そういう課題を解決するために、区画整理をして、

 幹線道路(都市計画道路)を造る あるいは生活する道路も救急車が入って普通の生活ができる区画道路を造る、駅前広場を造る、公園を整備する、下水道を整備するといった公共的基盤を整える必要がありました。所有している土地(例えば、細長くて間口が狭いとか、大きな土地を持っているが道路とちゃんと接道していないとか)を整形化して建物を防災性のある建物に更新、建て替えを促進する必要がありました。防災性を向上させ、生活環境を改善し、川崎市の生活拠点にふさわしい健全な市街地をつくることがこの事業の目的です。  公共側の整備・改善民間側の宅地利用の増進とを一体的に整備することを土地区画整理事業といいます。                                              

2 施工地区 

登戸駅、向ヶ丘遊園駅周辺の商業地がある多摩区の中心市街地37.6ha        この地域には多摩区役所(図書館、保健所、市民館を含む)、NTT東日本、 登戸郵便局などの公共公益施設があります。

3 主な経緯

昭和50年 地元の人との懇談会が開かれました。                   昭和56年 川崎市の土地区画整理事業とすることで懇談会と合意しました。      昭和63年 事業計画を決定し、施行事業が始まりました。              令和8年3月31日が事業完了年度なので、それまでに早く完成させます。

4 令和3年7月時点の進捗状況

土地、建物は9割くらい、移転スケジュールが決まっています。移転先が決まっていない土地、建物は5%くらいです。道路は7割くらいできています。新設する3つの街区公園については、令和2年度に市民と公園計画づくりのワークショップを開催しました。

 

リターン

若いファミリー層が増えてる登戸

「若いファミリー層が増えてる登戸

いろんな世代が楽しめる街になればいいね」

  語り   小泉宏明さん 「東屋精米店」店主

  聞き書き 勝野井 央子  稲田郷土史会 & かわさき聞き書き隊

2023年3月6日

小泉家は先々代の時より、登戸東通り商店会の興隆を率先されてきた。

  • 登戸東通り朝市
  • のぼりとわくわくナイトバザール
  • のぼりとわくわく★すとりーとⅬⅠⅤE 等々

 ギタリスト&ヴォーカリストの小泉さんは、区画整理事業で寂しくなっている商店街をもう一度盛り上げたいと軽快な口調で話された。

東屋(あずまや)精米店の歴史

 曾祖父はとび職。登戸は昔から職人の街だったからね。

 祖父は合羽橋などで商品、材料を仕入れ、食品(団子・せんべい)や玩具を売っていた。

 父が、戦後、昭和22年ごろから、お米の販売(東屋精米店)を始めた。

 私は二代目で、後ろにいるのが息子で三代目。

登戸東通り商店会

 旧津久井道沿いにできた歴史ある商店街で、百年以上営業している店舗もたくさんあったんだよ。

 昭和四十八年前後は 人も店もとても賑やかだった。

 東通り朝市というのを昭和四十八年から三十年くらいやったね。

  *

平成十年過ぎ、スーパーも増え、コンビニもたくさん出来た。

そしたら、ダイエーも朝市をやるようになった。

時代の流れもあり、朝市に代わるイベントを、商店会の若い五人、

  江藤(婦人服ロンド)・

  細埜(石橋屋酒店)・

  野村(魚幸)・

  太田(太田生花店)・

  小泉(東屋精米店)・

 で企画・考案し、新しい夜型のイベント

のぼりとわくわくナイトバザールを始めた。

   第1回  平成13年(2003)6月2日 ~

   第46回 平成26年(2015)5月24日まで。

 第一回開催の時、私は40代の終わりころだった。

 まず子供が楽しめるゲームを企画した。すると大人も一緒に来るでしょ。

 商店会の人、地域の人、専大、明大のゼミの学生も参加するようになり、普段、食べ物を売らない店も、食べ物を店頭に並べて販売し、すごい賑わいだったよ。

  *

 私の店の前でやっていた

のぼりとわくわくナイト★すとりーとⅬⅠⅤEは、

 ナイトバザールの中心のイべントで、毎回、四~五組のアーテイスト

(川崎や東京の人)が参加出演してた。その中にはプロの方もいた。

 勿論、私も毎回ギターを抱え、昔のフォークや自分のオリジナルを歌った。

なまずんのシャッターペイント(平成19年10月~22年10月)

 これは「商店会のおかみさん会」が中心。20店舗。

 商店会のキャラクター「なまずん」を下北沢のデザイナーさんに協力してもらい、各店舗のシャッターに、その店にぴったりな「なまずん」のいる絵を描いた。

 作業は、店を閉めた後、夜8時~10時過ぎまで。みんなボランティアで。

 商店会の人、地域の人、学生さんも少しいたかな。

 3年くらいかかったね。

 「シャッターを閉めた後も、商店街を楽しんで歩いてもらおう」と、地域

の客とともに、親しみのある笑顔と思いやりのある地域密着型の商店街を目

指した。

 完成した平成22年10月20日~23日

商店街シャッターペイント完成記念キャンドルフェアーをやった。

スーパーカインズの跡地で。

八百本のペットボトルに水とキャンドルを入れて。

嬉しかったね。ホント、懐かしいな。

“今はこのシャッターペイントも無い”

やがて、東通り商店街にも区画整理の波が押し寄せてきて、登戸わくわくナイトバザールもできなくなった。

当店も、区画整理事業への協力で、約三年間(平成二五年~二七年)、

仮店舗で営業した。

新店舗に戻ると、周りの店舗が移転したり、廃業したりしてた。

そんな寂しさの中、「ストリートライブを、又、当店前で復活させたい

と再スタートさせた。平成29年9月16日。

六回ほど開催したね。

  *

 今は、まだ出来ない。又、ライブ♪ やりたいね。

現在の問題

 区画整理が進むと、店をやめる人や移転する人が出てきて店も減った。

 小売店が減って、美容院や病院なんかのサービス業が増えた。

新しい人が増えたからかな。

高齢化で後継者問題もあって、会員も減り、商店会の存続が、今難しい。

イべントもやりにくくなったね。

  *

道路がたくさんでき、人の流れが変わった。

以前、店の前を役所帰りの人が通ると、「五時だな」と思ったんだがね。

建物が高層化し、上は賃貸住宅、下が店舗となり、商店街が寂れていくのは残念。

道が歩きやすくなったのはいいけど、人と人との繋がりがなくなったのが寂しいね。

  *

武蔵小杉のようにはならないと思うよ。

武蔵小杉は大企業の地権者がいて、思い切った開発を早く行う事ができた。

登戸は、昔からの建物が密集していて、下水道化が進んでなかったんだね。

でも、東海道や大山道の裏街道、津久井道の職人の街として味があったよ。

登栄会(向ヶ丘遊園駅北口→多摩区役所)の道路は地下電化になるけど、東通りは電柱のままだ。

これから

 私も七十過ぎ。新しい建物を建て、ここで営業している。

コメにこだわりのある人が買いに来るよ。

精米したては格段においしい。

 精米も三分、五分、七分、白米と、精米度数が低い方が栄養価が高い。

 以外に、若い人が買いに来るんだよ。

  *

 歩きやすくなった街に若いファミリー層が増えているよ。

 いろんな世代が楽しめるような街になればいいね。

注登戸東通り商店会のHPをご覧になれば

  のぼりとわくわくナイトバザールやシャッターペイントの写真をご覧になれます。

リターン

五島列島の旅

 キリスト教は1549年、ポルトガルのイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルにより日本にもたらされましたが幕府がキリスト教禁止令を出し、信者への迫害をおこってキリスト信者は五島列島に移り、密かに信仰を続ける隠れキリシタンとなりました。

信徒発見

 幕末の安政5年(1858)五ヶ国条約(アメリカ、フランス、イギリス、オランダ、ロシアの修好通商条約)が結ばれると、函館、横浜、長崎が開港され長崎港を見おろす大浦地区に長崎外国人居留地を設置しました。

 居留外国人には、信教の自由が保障され1864年に大浦天主堂が完成した1ヶ月後、浦上の潜伏キリシタンおよそ15人が訪問。聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき「ここにおります私たちは、皆あなたさまと同じ心でございます。」と告白し約250年長崎地方に潜伏して信仰を守り続けてきたキリシタンの存在が明らかになりました。

 この出来事を信徒発見と呼び、全世界に驚きと感動を与えました。

福江島

  堂上教会

     

  水ノ浦教会

中通り島

 青砂ヶ浦天主堂 

   

 大曾教会

奈留島

 奈留教会

 江上教会

   

頭ヶ島天主堂

頭ヶ島天主堂

隠れキリシタンの一部は、病人の療養地として人が近づかなかった頭ヶ島(かしらがしま)を移住の適地として選び、仏教徒の開拓指導者のもとで信仰をカモフラージュしつつ移住し、ひそかにキリスト共同体を維持してきた。

珍しい石造りの堅牢な外観の頭ヶ島天主堂

福江島

 堂上教会

磔にされ殉教する聖ヨハネ五島の像

ローマ法王庁がカトリック信者に「福者」の位を授ける「列福式」長崎市で行い、江戸時代に殉教したキリスト教信者188人に、最高位である「聖人」に次ぐ福者の位が授けられました。

マルマン神父とペルー神父と子供たち

アルメイダによる宣教

戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。医師の免許を持ち、豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科,内科を備えた総合病院を建てた [4] 。これが日本初の病院であり、西洋医、内か、外科、ハンセンシ病科を備えた日本初の西洋医学総合病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となりザビエルの後布教に従事した。

水ノ浦教会

マリア像

西海国立公園

白石湾・魚津ヶ崎

遣唐使船寄港地記念碑

 難波津(大阪)を出港し瀬戸内の港に立ち寄った後、五島列島福江島が日本最後の立ち寄り港で、ここで風待ちをした。

 ここを出港すると外洋となり多くの英才は再び故国の地を踏む事がなかった。かろうじて生き残った人たちが次代の日本の文化をになった。生きて帰れなかった人々は日本文化の貴重な人柱と言えよう。この貴重な人柱の上に、我らは今立っているのである。一国の文化の為に世界でも類を見ない航海をした人々を、この魚津崎に立って偲ぼう。勇気に満ちて航海した人達であった。私達は先祖の勇気を讃え、これからの我が国の文化口上の踏台としたいものである。

        五島文化協会会長  群家真一 

黒島

黒島灯台

道路のモザイクタイル

黒島展望台

 黒島は海亀の産卵の海岸

ヤシガニ

放牧

インドクジャク

 飼育していたが逃げ出して野生化した外来のインドクジャク。 八重島諸島固有の昆虫や蝶を捕食するため数が減少し、害鳥としてもあつかわれいる

伊古桟橋 (国の有形文化財) 

 海に向かって一直線に延びる全長354メートルの伊古桟橋はかつて船着場として使われており、黒島の人たちの生活を支えていた島への入り口でした。

クロサギ

比叡・坂本・八瀬

滋賀院

律院

尊師 叡南阿闍梨  千日回峰行を成し遂げられた

非公開の庭園

比叡山ケーブル

延暦寺駅

大津市街展望

坂本・雄琴方面

無動寺明王院 千日回峰行の拠点

京都側 ロープウェイ

千日回峰写真館

京都側 ケーブル

紅葉の坂本

日吉大社 参道

日吉大社は全国日枝神社の総宮です。比叡山延暦寺は京都御所の鬼門に位置し御所を守護する守護寺で、日吉大社は天台宗の守護神です。日吉大社には神仏習合と山岳信仰が融合した神が祀られています。

山王鳥居

 明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った独特の形をしているのが特徴

西本宮 楼門

西本宮 本殿

西本宮 拝殿

比叡山山麓のこの道は、明智光秀の菩提寺「西教寺」に通じます

宝塔

東本宮 楼門

左 東本宮本殿   右 東本宮拝殿

二宮橋 江戸時代前期 1669年 建造

 十二本の円柱橋脚をたて、その上に三列の桁をおき、桁上に継ぎ材 をならべ橋板を渡し、両側に高欄をつける

二宮橋

日吉大社 参道の側道

紅葉の京都

東福寺

  通天橋

愛宕念仏寺

 石像1200羅漢

寂光院

平清盛の息女建礼門院徳子が住職を務めた尼寺

常寂光寺

 嵯峨野は皇族や貴族の離宮・山荘をかまえる景勝地の寺

光明寺

法然上人が自ら悟りを開いた念仏の第一声を高橋茂右衛門に授けた「浄土門根元地」

金蔵寺

石段が続くお寺

二尊院

釈迦如来と阿弥陀如来をお祀しているので二尊院と呼ばれている

神護寺

紅葉の名所 高尾山のお寺 山号は「高尾山」

高山寺

 石敷の表参道

天龍寺

 曹源池の庭園

三千院

 紅葉の向こうに往生極楽院

宝厳寺

嵐山を背景にした回遊式の庭園

直指庵

自分に向き合える静かな佇まい

善峰寺

遊龍の松

南禅寺

境内を通る琵琶湖疎水 水路閣

天授庵

宝筐院

祇王寺勝持寺

  苔の庭に落ちた紅葉を愛でる

心の置き場 リターン

南禅寺

 日本を代表する三門

 藤堂高虎が大阪夏の陣で戦没した藩士を弔うため建立した。

 三門の上層「五鳳楼」には釈迦如来を本尊として脇に月蓋長者、善財童子、左右に16羅漢がおわします。 徳川家康・藤堂高虎の像、重臣の位牌が安置されています。

  

三門の上層「五鳳楼」からの景色

天授庵

紅葉の京都 リターン