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7.5 現在の二ヶ領用水

稲田領側の二ヶ領用水は現在も同じ水路を流れています。二ヶ領用水が地域の川の水を集め最終的に多摩川に流すメイン河川の役割を担っている事や、稲作・畑作が戦後も長く続き用水が利用されてきたからと考えられます。 

20年程前までは2本の二ヶ領用水に挟まれた長尾地域一帯は稲作や梨の栽培がおこなわれ、長尾小学校では水田をお借りして稲作の実習が行われていました。 主婦や娘さんが手で田植えをされていた情景は今も瞼に残っています。

        宿河原堰 取水口近く 

南武線 宿河原・登戸間のの多摩川側を流れる二ヶ領用水は、開削当時の風景がそのまま残っている場所です。写真左手は今も畑作が行われており、用水路の石段を利用し水を取水しておられるのだそうです。

           宿河原から久地方面

桜は昭和33年が植えられ用水面近くには遊歩道が設けられ桜名所となっています。

久地円筒分水

昭和16年(1941)に平賀栄治が「久地円筒分水」を設計し建造しました。

二ヶ領用水はここで多摩川方面への水路と分流し、用水は平瀬川の下をトンネル水路で導かれ、サイフォンの原理で吹き上がらせた水を、耕作面積の比率を円筒の円周比率に一致させて四つの堀に分水し、各堀へ正確に用水を供給しました。

     左から 根方堀、久地堀 、六ヶ村堀への分水

           川崎堀への分水

緑化センター懸樋

宿河原取水口からの二ヶ領用水の上をまたいで給水する五ヶ村堀の石作りの懸樋(かけひ)です。

水路は緑化センター内は暗渠となっており、この水路の上流を辿ると水路は分流と合流が組み合わさり、宿河原-久地の間は隈なく水路が張り巡らされていました。

関東江戸風土記 リターン

7.4 志を引き継いだ人々

妙遠寺

小杉陣屋招聘され妙泉寺を建立した日純上人は後に秀忠の命により川崎宿砂子に寺院を与えられ妙泉寺の本堂をこの地に引き移して、妙遠寺(みょうおんじ)を建立することになりました。家康が死去すると次太夫は出家し、1619年代官職を養子の吉勝に譲り妙遠寺に隠居し85歳で生涯を閉じました。

          妙遠寺 小泉次太夫像

        泉田二君功徳碑(せんでんにくんくどくひ)

川崎の発展に大きく貢献した小泉次大夫、田中休愚(たなかきゅうぐ)の二人の偉業を讃え、苗字から1字ずつをとって命名された石碑で、当時内閣総理大臣黒田清隆が揮毫しています。

田中休愚

田中休愚は幕府管理の六郷渡しを川崎宿が請け負う許可を得え、疲弊困窮していた川崎宿の繁栄をもたらした功績を中興の功労者として讃えられています。

休愚は吉宗の御前に召し出されて治水・農政の意見を述べ、川方御普請御用に任命されました。多摩川改修、二ヶ領用水改修等治水事業に多くの功績をあげました。 

伊奈半左衛門忠順

宝永4年(1707年)11月23日に富士山の大噴火、宝永大噴火がありました。関東郡代伊奈家7代目の伊奈忠順(ただのぶ)は酒匂川の川浚い奉行を命じられました。

しかし最も被害があった駿東郡足柄・御厨(みくりや)に対して幕府の支援が一切行われず、忠順は田畑がつぶされた被災農民を雇い入れることで生活の安定を図りました。幕府は各藩に義援金(48万両)を拠出させたのですが大半は幕府の財政補填に流用されて工事は進みませんでした。忠信は被災農民を勘定奉行に直接直訴させたのですが、給金のアップは僅かでした。

幕府の救済が行われない被害地の人々を救うため、忠順は代官所の米蔵を自分の判断で開き1万5千石の米を支給して田畑を失い困窮していた村民を救いました。

その後忠順は幕府の蔵を開いた責任を取って切腹しました。しかし事情知っている役人は急死と幕府に報告したので、伊奈家は存続が許されました。(参考:怒る富士 新田次郎氏 著作)

その後田中休愚が任命され、土砂の浚渫、堤防による川筋の固定化工事が進捗し酒匂川流域は急速に復興しました。

伊奈忠順は不忘の人となり1867年小祠が建立され、その後須走に移転し伊奈神社が建立されました。

関東江戸風土記 リターン

7.3 小杉御殿

将軍の宿舎として使用する目的で1608年秀忠が小杉陣屋の西の敷地に造営しました。当時相模国と武蔵国を結ぶ主要街道であった相州道(中原街道)沿いで多摩川の丸子の渡しがある江戸防衛の重要地点でした。近くに西明寺・泉澤(せんたく)寺があり、政治的にも立地環境が良い場所でした。

表御門は防衛上直角に曲がった中原街道に面していました。現在もこの道は短い間隔で直角に折れ曲がっており交通は停滞しています。

右手の奥に将軍が休む御主殿、北側の裏門、御蔵御賄屋敷、御殿番屋敷が配置され御主殿東側は小杉陣屋と次太夫代官屋敷がありました。

この頃小杉村は、江戸へ往来する大名・武士町人・旅芸 人などで賑い、商店や宿屋が立ち並ぶ川崎で一番活気ある街道(場所)でした。

東海道が整備されると中原街道を通る大名が減り、小杉御殿の存在意義も薄れて廃止されました。現在は、陣屋の地名と主殿跡に主殿稲荷と石碑が残っています。

中原街道(相州道)

因みに府中御殿は奈良飛鳥時から武蔵国を治める国司館(こくしのたち)の場所に関東移封時造営された最初の御殿です。御殿築営は要衝の地が選ばれた事が伺えます。

家康が命じて1596年に現在の平塚市中原に建てた「中原御殿」が中原街道の名前の由来です。武蔵国と相模国を結ぶ街道で相州道(あいしゅうどう)と呼ばれていました。北条時代に相模国と江戸を結ぶ道として整備され、比較的直線区間が多い街道で、東海道が整備されていない 江戸初期は主要道でした。

中原御殿跡と中原街道の絵図は残されています。          平塚市博物館 中原御殿 中原御林  

西明寺

小杉御殿に隣接する徳川幕府にとって西明寺は重要地点にありました。弘法大師が東国を巡り、奈良時代に川崎(宮前 有馬)に建立された後この地に移転しました。 北条の保護を受け家康も朱印地を寄進しています。

         立派な構の本堂

 大きい丸い4段石座に立たれる弘法大師尊師を仰ぎ見ます。

         威風堂々風格ある鐘楼です。

泉澤寺 

世田谷領主吉良頼高(よりたか)が1491年に多摩郡烏山(世田谷区烏山)で菩提寺として建立しましたが焼失し、1550年に吉良頼康(よりやす)が現在の地(小田中)に再興しました。

上小田中では免税により商人の居住を促し、門前町を整備して町の繁栄に貢献したと言われています。

二ヶ領用水(川崎堀)

  昭和7年頃 二ヶ領用水  参照 新小杉開発 株式会社 HP

泉澤寺境内の近く小田中(神地)と小杉の境に二ヶ領用水(川崎堀)が流れています。昭和始め頃の用水は清らかで水量は豊、川幅も広く、昭和初期までは飲料水にも利用されていたそうです。

神地橋

中原街道と二ヶ領用水(川崎堀)が交差する地点に架かる神地橋(ごうじばし)からの現在の二ヶ領用水です。

神地橋は昭和10年中原街道の改修工事の時コンクリートの橋になりましたが、それまでは木の橋でした。子ども達は木の橋の欄干を飛び込み台にして二ヶ領用水で泳いだり遊んだりしていたそうです。

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7.2 小泉次太夫

1582年先祖より今川の家臣でしたが家康の武田攻略戦に参陣し、家康の家臣となりました。 1590年家康関東移封で武蔵国橘樹郡小杉村に知行地740石を賜り陣屋を構えました。

四ヶ領用水

多摩川両岸を視察しこの大河川の度々の氾濫により土地は荒れ、水田開発がすすんでいない事を痛感しています。六郷は乏しい水利状態で一村の家数7―10軒程度の寒村でした。代官職に抜擢され、多摩川からの農業用水路(四ヶ領用水)敷設を進言し、左岸は世田谷領と六郷領および右岸は稲毛領と川崎領に用水路を開鑿し新田開発する許可を得、小杉陣屋は右岸工事の事務所となりました。

1597年から1611年15年の歳月をかけ次太夫73歳の時完了する、難工事でした。小杉陣屋に安房国小湊の日蓮宗妙本寺から日純上人を招来し妙泉寺を建立して事業完遂を祈念しています。後に妙泉寺は妙遠寺として川崎の砂子に移転しています。

1601年には用水奉行兼役となり両岸の灌漑用水路の地域を掌握できる地位になり幕府直轄領だけでなく、大名・旗本領の人足を徴発出来る職権も付与され、農作業への影響を考慮して、長男は除き、次男・三男を中心に婦女子も使役しました。

第1期 1597年2月1日―1598年12月5日

測量と杭打ちで下流から上流に向かって六郷用水と二ヶ領用水の交互に進められました二ヶ領用水側は多摩川の旧流路を利用し、その測量に日数が要したと思われます。この頃日本は朝鮮にて慶長の役(1597-1598年)の最中、秀吉の死(1598年8月)があったのですが工事は進められました。

第2期 1599-1609年

毎年12月-1月4日の正月休みを除き、お盆も工事を休まず続けられました。当時は関ヶ原の戦い(1600年10月)があった大変緊迫した時期でしたが、工事は遅滞なく進んでいます。

第3期 1609年8月―1609年12月

この検地は用水本流から各村の田へ分流するための小堀開削の必要性から行われました。

第4期 1601年1月16日―1611年2月28日

本流から各村の田畑へ分水する小堀の開削が行われました。六郷用水は小堀開削工事が少なく小堀は既存の川等を利用したと思われます。

灌漑水田面積

四ヶ領地帯は水利事情が不便で、水田工作による農業生産基盤が脆弱でしたが、四ヶ領用水完成により米の収穫量が飛躍的に伸びました。

1709年二ヶ領用水に宿河原取水口が作られ、1717年には二ヶ領用水側の水田面積は2007町歩に増加しています。

六郷側

狛江は古くから多摩川の洪水に悩まされる一方で、農業用水として利用するといった恩恵も受けて共存してきました。この地は彦根藩井伊家、旗本石谷家が村を分割して所領する複雑な支配関係があり、狛江に取水口を設け用水路を開鑿するには家康の許可を得ていても気使いが必要がありました。 陣屋は設けずに諸村の名主15名を用水新堀案内役に任命し、案内役や宿所提供を命じて工事が始まりました。

常泉寺(後伊豆見神社)1550年 多摩川の洪水により流失し常泉寺は現在の場所に遷座しました。

水神社  1597年 寺跡に多摩川の洪水を鎮める水神社が祀られ、後に小泉次太夫の偉業を讃え用水守護、土木建築の神として合祀されました。

関東江戸風土記 リターン

7. 関東平野の治水

7.1 伊奈忠次

1550年 三河・小島城主伊奈忠家の嫡男として生まれました。 1584年の小牧・長久手の戦の時、現在の磐田市に中泉陣屋を短期間で建築し家康は堂々とした堅固な出来栄えを賞賛しています。この陣屋は大阪夏の陣・冬の陣で作戦基地となりました。

   陣屋裏門の移築門とされる中泉寺の山門  参照 中泉寺HP

五ヶ国領有時期

甲斐国の奉行を務め武田家滅亡後、治安不安な村々の検地を行い甲州知行書を発行し百姓集団を郷村社会として自立化させています。民衆の心のよりどころである寺社には領地安堵する朱印状を発行し、郷村の団結力を高めて領地支配を進めました。

釜無川の治水技術(甲州流)を視察し、山々に囲まれ氾濫の恐れがある河川の治水工法(伊奈流)のベースとなりました。

家康関東移封時期

1590年 関東郡代として武蔵国足立郡小室・鴻巣1万3千石の領主となり、北条の御馬廻衆であった閼伽井(あかい)坊屋敷(東北本線蓮田駅と高崎線上尾駅のほぼ中間の小室丸山)を接収し陣屋としました。閼伽井坊を倉田(桶川市)の明星院に立ち退かせて、明星院近辺の田畑を与え「この地が我らの領地である限り孫の代まで、相違なし」との証文を発し、平穏に郷村の統治を進めました。   ここを拠点として 治水・検地・新田開発・街道宿場駅整備等 家康の関東支配・江戸幕府の創設に大きく貢献しました。

利根川の東遷(1594-1645年)

江戸時代以前利根川は荒川と合わさって江戸湊に流れ込み度重なる洪水により武蔵国の東部一帯は大湿地地帯でした。家康の関東移封後伊奈忠次が河川奉行となり利根川の河筋を鹿島灘へと流れる現在の流路に付け替える工事が始まり、忠次・忠政・忠勝3代に渡る50年の大事業となりました。

利根川東遷は利根川と荒川を分離し、利根川の流路を江戸から離して固定化する事でした。

①1594年 

利根川から分流している会の川を締切り利根川の流路を人工    的に変更

⓶1621年 

 新川通・赤堀川を開削し新利根川の流路を確保

③1624―1643年

 逆川・江戸川を開削し新利根川から江戸への水路を確保             

④1645年 赤堀川拡張

経済の活発化

利根川以南の流域は安定し、旧河道や遊水地を用水源や排水路として利用した水田開発が行われました。江戸への舟運が容易となり利根川東遷以前20ヶ所であった河岸が1688年 には80ヶ所、1770年には160カ所に増えました。

中川 江戸川・小名木川合流地点       

         中川口 広重 国会図書館

 手前が隅田川と中川を結ぶ小名木川で、上方が行徳・塩浜への水路  右への川が中川で江戸川を経て関宿(せきやど)にて利根川につながっています。左下には中川舟番所の屋根が見えます。筏・釣船・行徳からの塩の荷船・客舟 様々な舟が描かれています。

 奥川廻し(おくかわまわし)

 奥州方面から江戸に向かう大型の荷船は鹿島灘の銚子で小型の船に荷を移し替えて利根川に入り関宿(野田市)から江戸川を下り、ここ中川を経由して小名木川を通って隅田川と運ばれました。

 中川舟番所 

流通統制・監視地点として箱根関所と同じく、「入り鉄砲と出女」を監視していました。この番所は3千石以上の旗本の役職であり、幕府この関所を重視していました。

荒川の西遷(1629)

関東平野は、熊谷あたりを最深部とする扇状地形で熊谷から江戸湾に流れ込む荒川は古利根川と合流し下流域では絶えず流路を変え、氾濫を繰り返していました。

古利根川と古荒川が合体して引き起こした河川氾濫を治める方法として古利根川も流路を変える「荒川の西遷」を利根川東遷工事中におこないました。そして新利根川から江戸への水路「江戸川」を開削し舟運ルートを確保した渾身の治水工事でした。

寛永6(1629)年 熊谷の久下で河道を締め切り、流路を入間川の支流につなぎました。  

荒川は入間川水系と合流し 最下流の隅田川が江戸湊に流れた。 荒川に合流した隅田川は何度か洪水被害を引き起こし、明治44年から測量が始まりJR赤羽駅近く岩淵近辺を分岐点として荒川放水路(現在の荒川)が昭和5年完成しました。

関東江戸風土記 リターン

6. 江戸城の風水

寛永寺

徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の台地に慈眼大師天海によって寛永寺が建立されました。現在上野駅の西側は上野公園、上野動物園、国立博物館、西洋美術館等ありますが、江戸時代は全て寛永寺敷地でした。

寺の名前は法隆寺のように仏教の教えから由来するのが普通ですが、比叡山 延暦寺は延暦年間(782-806)に建設された年号から「延暦寺」と命名されました。寛永寺も延暦寺に習い建設された寛永2年(1625年)の年号から「寛永寺」と命名されました。

延暦寺の山号は「比叡山」で、寛永寺は東の比叡山であるとして「東叡山」と称しました。当時天台宗の関東総本山は川越の喜多院で山号は「東叡山」でしたが寛永寺の完成により喜多院はこの山号を剥奪されてしまいました。

上野地区は京都・近江の名所を倣って造営されています。

根本中堂

     東叡山 寛永寺 根本中堂 寛永寺HP参照

御本尊は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で、比叡山延暦寺の根本中堂と同じく、伝教大師最澄自ら彫られたと伝えられている秘仏です。

比叡山延暦寺 根本中堂を、延暦寺山門で高い石段の上にある文殊楼から回廊とその奥に根本中堂を望んでいます。 文殊楼は座禅による修行道場です。

清水観音堂

  上野清水之桜  渓斎 英泉  国会図書館 

清水観音堂で舞台造りのお堂は京都 清水寺の本堂(清水の舞台)を倣って造営されました。16建立した天海は桜を好み桜を吉野から取り寄せたとされています。左下に見える建物は文殊楼ですが、幕末の上野戦争で灰燼と帰し現在も再建されていません。

不忍池 

不忍池を東の琵琶湖として位置づけ、琵琶湖の北部にある竹生島を宝厳寺を、弁天島の弁天堂に見立てました。 宝厳寺は聖武天皇が夢枕に立った天照皇大神のお告げから建立され水と芸能を司る天女「弁才天」の聖地とされ秀吉も保護しました。

     忍岡の暮雪 渓斎英泉   国会図書館

当初は弁天島でしたが1672年石橋が架けられ春の桜、夏の蓮見、秋の月見、冬の雪見など 四季折々を楽しめる場所となりました。

     琵琶湖 竹生島  宝厳寺HP参照

    宝厳寺 宝厳寺HP参照

増上寺 (三縁山)

元々は麹町の貝塚村にありましたが、1598年江戸城の裏鬼門にあたる芝に移動しました。家康が当時の住職 源誉存応上人に深く帰依し、寛永寺と同じく徳川の菩提寺となり六人の将軍、二代秀忠・六代家宣 七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の墓所があります。

        芝増上寺 広重 国会図書館

檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林(関東の浄土宗の18の寺院)の筆頭となりました。敷地には120以上の堂宇、100棟を越える学寮があり、3000人以上の学僧の念仏が全山に鳴り響いていたと言われています。

三門(三解脱門)

       芝増上寺 昇亭 北寿  ボストン美術館

煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行「空門」「無相門」「無願門」の三門を三解脱門と称し、慶長16年(1622)徳川幕府の助成と幕府大工頭・中井正清により建立されました。2階には十六羅漢像が随従する釈迦三尊像がおわしますが非公開です。

ちなみに京都南禅寺の山門は藤堂高虎(江戸初期武将)が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建し2階に安置されている十六羅漢が随従している釈迦三尊像を南禅寺のHPで見る事が出来ます。    南禅寺(https://nanzenji.or.jp/equipment/sanmon

日枝神社(山王権現)      

文明10年(1478年) 太田道灌が江戸城築城の時 川越の喜多院の鎮守川越日枝神社を勧請しました。 家康の関東移封時江戸城内の日枝神社を紅葉山に遷座しました。江戸城の鎮守として1604年江戸城改築時江戸城外の麹町隼町に遷座しています。

  

       大津市坂本 日吉大社 山王鳥居

明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った独特の形をしているのが特徴で、東京の日枝神社にも石作りで同じ形状をの鳥居が石段の下にあります。

大津市坂本の日吉大社は日枝神社の総宮で、比叡山(日枝山)の山岳信仰・神道が融合した神仏習合の神様を祀る天台宗の守護神社です。

     銀世界東十二景 赤坂山王 広重 国会図書館

      山王権現雪中 二代目広重 国会図書館

左下の門が登拝口で櫻田門近くにあり、山王権現の裏地は溜池で武家屋敷を見晴せる場所に建てられ、江戸幕府を守護しているかのようです。2人の広重の雪中静かな山王権現にもお供を連れた武家が描かれ、幕府に仕える武家にとっては聖域であったことが分かります。

神田明神

平将門が939年常陸国府を襲撃し新皇と称しましたが、朝廷の追討軍に討たれてしまいました。墳墓とされる塚が築かれたのですが月日が流れて荒廃し、人々を呪って現れる将門の亡霊をこの神田明神に祀って鎮められ、戦国時代の太田道灌、北条氏照等武将より崇敬されてきました。1600年 関ヶ原の戦の際家康は戦勝祈祷を命じています。

         神田明神 広重  国会図書館

日比谷入り江埋め立ての為切り崩された神田山に神田明神が遷座され境内から江戸を一望する事ができる名所となりました。

     東都名所 神田明神 広重 国会図書館

江戸城を守護する神田明神と山王権現の神田祭と山王祭りは天下祭と呼ばれ祭の際には両祭の山車が江戸城に入って将軍に拝謁する事が許されていました。

関東江戸風土記 リターン

5.4 隅田川に架橋された橋

隅田川に架橋された橋

 

江戸時代、隅田川に架けられていた橋は、上流から千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永大橋の5橋で、架けられた年代順には千住大橋(1594年)、両国橋(1659年)、新大橋(1693年)永代橋(1698年)、吾妻橋(1774年)となります。

両国橋

      東都 両国之風景 昇亭 北寿 ボストン美術館

明暦大火(1657年)の時、隅田川の橋が千住橋だけで避難できず 多くの死者を出したため1659年に架橋され、西側が武蔵国、東側が下総国なので両国橋と名付けられ、火除地としての役割も担いました。

右に見えるのは木材置き場の一部です。地方から切り出した木材は舟で運ばれここに保管され、ここから建設現場にまた舟を利用して運ばれます。長い木材は痛まないよう立てて保管しています。

明暦大火後、隅田川の向い岸側に本所上水が1659年に開削され、更に両国橋が架橋されると、市街地が拡大され本所・深川方面の発展に大きく寄与しました。

 富嶽三十六景 御厩河岸より両国橋夕陽見 葛飾北斎 国会図書館

現在の台東区蔵前二丁目辺りの隅田川岸に幕府の御厩があったので、この辺りを御厩河岸(おんまやがし)といいました。

渡し船の手前に、美しい藍の線で大きな荒波が描かれています。対岸の両国橋のたもとに富士の姿が沈む夕陽の逆光でシルエットとして表現されています。、日が沈んで次第に色が失われていく時間が表現されています。

     江戸自慢三十六景 両こく大花火 広重  国会図書館

空に上がった花火、両国橋、花火見物の舟、隅田川端の茶店を背景にしたおしゃれな着物姿の美人図。 花火の音や人々の喧噪からも浮かび上がり誠に優雅なお姿に魅了される光景です。

曳舟川

    名所江戸百景  四ツ木通用水引ふね 広重 国会図書館

明暦3年(1657)の大火の後、人が住めるよう本所(墨田区)と深川(江東区)の各地に上水を運ぶ本所上水を開削しました。 江戸初期深川は漁師町でしたが、両国橋が架橋(1659年)され、本所上水(1659年)が引かれたことで急速に発展しました。

上水が農業用に使われるようになると、舟の先に綱をつけて川岸から人が舟を引っぱる「曳舟」が行われ曳舟川と呼ばれるようになりました。曳舟の始点は四ツ木(葛飾区)にあったので「四ツ木通用水」とも呼ばれました。 現在は暗渠化されて、「曳舟川通り」として舗装道路となっています。

新大橋

  名所江戸百景 大はしあたけの夕立  広重

急に降り出した夕立に相傘をしながらしのぐ3人組の男たちをはじめ、両岸へ急ぐ町人たちの様子が描かれています。橋の向こう側が「あたけ」(安宅)です。 天下普請の際、徳川水軍長であった向井正綱の子の忠勝(将監)に軍艦(あたけ)の建造を命じ、本所隅田川沿いの幕府船蔵に係留されていました。

永大橋

   歌川広重 名所江戸百景    永代橋佃しま

永代橋は当時の隅田川にかかる江戸で最も長い橋でした。佃島の漁民は、毎年11月から3月までの寒い期間に、江戸時代大層好まれた白魚を獲り、幕府に納入していました。篝火(かがりび)がゆらゆらと燃え、水面にうつる風情ある光景は、江戸の風物詩のひとつとなっていました。

     永代橋  渓斎英泉  国会図書館

5代将軍綱吉の誕生50歳の記念事業として関東郡代伊奈忠順(ただのぶ)が命じられ架橋されました。架橋には上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされています。 

関東郡代伊奈家7代の忠順は、宝永4年(1707)11月に620年ぶりに発生した富士山の大噴火で砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、火山灰が堆積した酒匂川の砂除け、堤防修復などの復旧事業に携わりました。しかし最も被害があった駿東郡足柄・御厨(みくりや)に対して幕府の支援が一切行われず、忠順は酒匂川の改修工事に被害農民を雇い入れることで生活の安定を図り、農地を回復させるための土壌改良にも取り組みました。しかし忠順は復興開始から4年後、事業半ばで死去しました。

忠順の救済により救われた農民たちは、その遺徳を偲び須走村(現在の静岡県駿東郡小山町須走)に伊奈神社を建立し忠順の菩提を弔いました。

関東江戸風土記 リターン

5.3 日本橋

日比谷入江を埋め立て江戸前島と連なる町を整備する際に京都へと連絡する新たな東海道と、奥州や常陸方面と連絡する街道が1603年架橋された日本橋で接続し、日本橋が五街道の起点となりました。

日本橋近辺は隅田川と江戸城内堀が水路で通じる水陸交通の要衝で経済・物流の拠点となりました。日本橋は中央が高いアーチ型で、富士山・江戸城天守閣を望め見晴らしが良い観光スポットでもあり、大勢の人で賑わいました。

    日本橋真景并ニ魚市全図 広重東都名所 広重  

江戸の豊かさと繁栄の象徴が全て描き込まれています。                              日本橋・お城まで続く蔵・運搬舟・大勢の人々・大店・魚河岸 

    日本橋 昇亭 北寿 ボストン美術館

右岸日本橋周辺は江戸の下町の中心で大店や蔵が軒をつらね、各地からの人々で賑わいました。日本橋たもとに見える蔵は家康に命じられ開店した近江商人西川の江戸店「山形屋」の蔵です。

右岸の魚河岸は江戸市中の魚取引の中心として発展し幕府に魚を納める役割を果たしました。その後魚取引は関東大震災をきっかけに築地へ移転しました。

中央に見える複数の漕ぎ手がいる舟は押送舟(おしおくりぶね)と呼ばれる鮮魚輸送専用の高速運搬舟です。

   東都名所 日本橋雪中  広重  国会図書館

雪がしんしんと降り橋を渡っている人の傘に雪が積もり、真っ白な富士山が姿を遠くに見せています。日本橋川の水面の色は、近くが藍色、遠くは薄水色で遠近感を感じさせます。雪の日の普段にはない静かな日本橋の情景です。

日本橋エリア

幕府に取って、財政、司法、外交、時刻等管理する重要な地域でした。

金座

小判の製造所で幕府の中央銀行で現在の日本銀行もこの場所にあります。本両替町には現在の銀行に相当する両替店が建ちならんでいました。

時の鐘 

時刻を知らせる時の鐘がありました。江戸時代、和時計を持っているのは豪商や大名等だけで、庶民はお寺で打つ鐘の音で時刻を知りました。当時の時刻は、一日を夜明けと日暮れを基準にして昼と夜に分けてそれぞれ6等分し、その長さを一刻(いっとき)と呼んでいました。 一日のうちでも昼と夜の一刻の長さは異なり、しかも季節によっても変わるのです。 時刻を管理する本石町の「時の鐘」で刻まれた時は赤坂・本所・上野・芝・目黒・市ヶ谷・浅草・四谷と中継され当時なりに正確に時を知らせるシステムでした。

時の鐘は、川越、八王子等にも作られていました。

長崎屋

長崎の出島に居住していたオランダ東インド会社の商館長(カピタン)一行の宿所で将軍謁見が義務づけられていました。

北町奉行所

日比谷入江埋め立てで築造された大名小路の日本橋川に面する位置には江戸の治安を守る北町奉行所が置かれていました。日本橋の南に位置する場所は奉行配下の与力や同心が居住する組屋敷がありました。南町奉行所は同じ区画の現在の有楽町駅付近にありました。北町奉行所と南町奉行所は奉行所の場所を表しており、月番交代で務め、非番の月は訴状内容を調査していました。

越後屋 1672年

松阪の高利貸で酒屋の息子であった三井高利が52歳の時日本橋駿河町に越後屋開店しました。今までに無い商法で大成功を収めました。現在の日本橋三越がこの場所に立っています。

      東都名所 駿河町 広重 国会図書館

  • 現銀(現金)掛け値なし                          それまで呉服販売は得意先の大商人や大名屋敷に見本を持って訪問販売し、支払いは盆・暮の年2回でしたが越後屋は現金販売で値段を安くして、お客をふやしました。
  • 小さな布も販売                              それまで着物1着分の布が販売単位でしたが、前掛けや小さな着物も切り売りする職人や町人等庶民をお客に増やしました。
  • 専門店員
      婦人物、和服など専門店員がいました。
  • 宣伝                                   越後屋と書かれた傘の無料貸しや越後屋の看板が入った浮世絵に描いて宣伝を行いました。  
           駿河町 越後屋(部分)
  • 両替商       

大阪、京都など支店を開店すると、幕府から両替商の許可を得、高額な両替手数料を支払う必要のない自前の両替決済網を大阪、江戸に構築しました。 自前の決済網を持っていない店からの両替手形を発行し手数料を得ていました。

当時幕府御用金の大阪・江戸間輸送は隊列を組み千両箱を御伝馬の背にした現金輸送でしたが越後屋の両替決済網に切り替え明治まで続きました。 江戸時代は金銀の両本位制で 西日本は銀本位制、東日本は金本位制でした。両替商は両位制の金銀交換比率で手数料を得ていましたが、幕府支払猶予期間(150日)があり高利子でこの間に又貸出来る利幅の大きい取引だったのです。

西川

近江(滋賀県)は琵琶湖があり水資源が豊富で大量の清水を使う繊維業が発達していました。西川は1566年蚊帳や日用品の販売業を開店し、1578年に現在の近江八幡に本店「山形屋」を開設しました。1615年に家康に命じられ架橋前の日本橋脇の一等地に支店を開設しました。錦絵にも描かれている萌黄色に染めて絵柄をデザインした「近江蚊帳」がヒットし、幕府から蚊帳問屋に指名されました。現在も日本橋西川店は同じ場所に店を構えています。

    近江八幡市 旧西川家(西川甚五郎)邸宅

近江八幡八幡堀の写真です。前方橋の左に見えるのが西川甚五郎の蔵で、蔵から直接舟堀への石段を使って商品を積み込み、琵琶湖に出で大阪・京に運びました。近江八幡も江戸も荷の運搬は 水路を利用した舟であった事がわかります。

関東江戸風土記 リターン

5.2 玉川上水

家康の関東入府後50年を経て参勤交代制も定着して人口が増加し飲料水が不足となりました。玉川(多摩川)より取水する玉川上水が 1653-1654年、2年の短期間で後に玉川姓を賜る庄右衛門・清右衛門兄弟によって開渠されました。

羽村から四谷までの標高差が92メートルしかなく高度な土木工事が必要でした。当初は日野から取水しようとしたのですが低地のため流水せず、次は福生に変更した所「水喰土」(みずくらいど:浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい失敗です。設計技師の助言により羽村に取水地を変更して3度目の正直ようやく工事が進行しました。

しかし当初請負費用6000両は高井戸辺りで不足し屋敷・田畑を売却し3000両を調達して8ヶ月後、羽村から四谷大木戸間92Kmの上水路が開通し、1654年6月から赤坂、麻布、芝に通水されました。玉川用水は水量が豊富であったので、野火止用水、青山用水、千川用水、芝用水に分流し江戸の町に給水されました。

     名所江戸百景 玉川堤の花 広重 国会図書館

現在の新宿御苑正門あたりを描いたものと考えられています。御用木と無断で書いてしまったため幕府から咲く前に撤去を申し付けられ、この絵のような景色となることはありませんでした。この絵は広重の想像絵なのです。

江戸の上水道マップ

武蔵野新田開発

武蔵野と呼ばれる多摩郡特に北多摩は水場のない荒れ地で武蔵野台地の崖下は湧水があり村もありましたが、台地の上は富士山等火山灰が厚く、井戸からも水を得られないため人は住めなかったのです。

玉川用水が引かれると武蔵野の新田開発が行われました。火山灰の台地は土地がやせており畑作が中心で、練馬大根・小松菜・谷中ショウガ等特産品を江戸の住民に売り歩き下肥を汲んで帰る、優れたリサイクルシステムが出来あがりました。

野火止用水

立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る1655年に開削された全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。

川越藩主松平伊豆守信綱により、武蔵野開発の一環として、川越野火止台地開発のために入植した人々の飲料水・生活水確保を目的に開削された用水路で、現在の小平市小川を流れる玉川上水から掘り起こされ、野火止台地を経て全長24kmに及びます。後に田畑用水としても利用されるようになりました。

この野火止用水開削に前後して、川越藩では野火止の耕地を短冊形に区画して新しい村を作り、農民を入植させ松平家の一門や家臣まで開発に参加させるという計画的な新田開発を行いました。

野火止用水が玉川用水から分流する地点は現在の小平市小川橋で、江戸時代に畑地が開拓されました。

中央を青梅街道が通り、南北二つの用水との間を細い線で区切られた区画が開拓農民の一人一人の土地です。街道に近い所に家屋敷があり畑は用水路から取水出来ました。現在もこの地形がそのまま残っています。

関東江戸風土記 リターン

5. 江戸開府と天下請負

家康が関ヶ原の戦い(1600年10月21日)に勝利し、征夷代将軍に任命(1603年2月12日)されました。江戸が開府されこれより260年余続く江戸時代が始まります。

天下人となった家康は諸大名に江戸城と城下町の拡張工事、いわゆる天下普請を命じました。この時期幕府は領地安堵の朱印状をほとんど発給しておらず、自己の領土が保障されていない西国大名は賦役を自ら願い出て忠誠を披歴せざるを得なかったのです。

5.1 日比谷入江埋め立て

開府の翌月3月に日比谷入江に流れていた平川の流れを変え、神田山を切り崩しその土で日比谷入り江を埋め立てて前島と陸続きになり現在の日本橋から新橋辺りまでの町が造成されました。

埋められた土地は内堀に位置し大名屋敷、奉行所、勘定所等が立ち並ぶ幕府の最重要エリアとなりました。日比谷入江から 始まった江戸の埋め立て事業は家康没後も続き築地・深川等新たな土地が造成されました。

佃島

家康は本能寺変の折家康を助けた摂津国佃村の漁師達を開府後に江戸へ呼び寄せ江戸湊の漁業権を与えました。漁師達は石川島付近の干潟を行い0年以上の歳月をかけて寛永21年(1644)佃島が完成しました。

      佃嶋初郭公 広重 国会図書館

暮れなずむ佃の空に月が昇り川面を白く照らす月に郭公(かっこう)が組み合わさり、林立する帆柱の間に一声聞こえてきそうな絵です。

築地

       築地本願寺 広重 国会図書館

築地は地を築くの意味で命名されました。

東の海上から眺めた本願寺で、浅草にあったのですが明暦の大火で消失しされました。跡地での再建は許可されず八丁堀沖を埋め立てて築地に1679年再建されました。これを機会に他の寺院も築地に移転しました。

深川

江戸の人口が増加してゴミ処理場が必要となり、摂津国から移住してきた深川八郎右衛門により隅田川と行徳を結ぶ小名木川と新川の南側を 埋め立て深川村としました。

         深川十万坪 広重 国会図書館

向こうに見えるのは筑波山で深川の広さをみせています。

鷹が洲崎の浜で獲物を見つけ真直ぐに見つめ爪を立てて急降下の体勢でまさに襲いかからんとしています。広重は、人が入らない広く広がる洲崎の「静」と洲崎に生きる鷹のダイナミックな「動」を見事 に対比させて描きました。

        深川木場 広重  国会図書館

木場は元禄14(1701)年、15名の材木問屋に払い下げられた土地で、貯木場があったことが名前の由来です。材木問屋らは四方に土手を築き、堀をめぐらすなどの整備を行い、江戸の材木市場として栄えました。

江戸城築城

西国諸国の大名が伊豆国から石を切り出して、石垣の築造を行い1604年には本丸が落成し将軍の秀忠が入りました。1607年になると東国諸国の大名により外堀(神田、赤坂溜池)が築造され、石垣をさらに積み上げその上に五層の天守が建造されて、江戸城の天守は連立型天守となりました。

江戸城の防備

江戸城の防備は2段構でした。江戸城は内郭と外郭に分かれて城に入るには橋を渡り城門をくぐる必要がありました。城門の数は36以上ありました。内堀や外堀にかけられた城門を見附といい、江戸城を囲うように赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附、小石川見附等、人や物資が行き交う要所であったので大名や旗本の番士が交代で昼夜詰めていました。   見附の内側には江戸城の城門、桜田門、日比谷門、和田倉門、常盤橋等が設けられました。

徳川御三家の上屋敷

元々は江戸城内にあったのですが、明暦の大火後区画整理で城外に移されました。御三家の藩邸は江戸城を囲むように外堀通りの外側に、尾張藩は市ヶ谷、紀州藩は麹町、水戸藩は小石川とバランスよく配置され江戸城西の守りの拠点にもなりました。

関東江戸風土記 リターン

4.5 農村支配と江戸町人の暮 らし

農村支配

小田原征伐で合戦に巻き込まれる事を恐れた農民が農地を捨て離散し農村は荒廃していました。離散した農民を呼び戻し再び耕作させるため年貢の減免をおこないました。一歩間違えると一揆が勃発する恐れがあり北条氏の遺臣を出来るだけ取り立てる事で一揆勃発の危険性を少しでも減じて、家康の支配は成功しました。 北条氏旧臣や領民に配慮しながら、検地を行い家康の直轄地である蔵入地(くらいりち)は約120万石にも達し、総石高の半分が直轄地に組み込まれました。これにより家康の財政基盤すなわち権力基盤が著しく強化されました。

江戸町人の暮らし

道三堀の両岸には最初の町家が建てられました。開鑿時に出た土を埋め立てに利用し、町人町が作られました。江戸の町人地の基本的な区画は通りを挟んで向かい合う家屋で構成されています。表通りに面して店舗が建ち並びその奥に長屋がありました。店舗は2階建てで1階が店舗2階が住居でした。一般の庶民は裏長屋に住んでいました。

長屋1軒の大きさは玄関台所含めて約3坪程度、壁は薄くプライバシーはほとんど無い厳しい住宅状況でした。 

上水道からの水が井戸に貯えられ、住民は毎朝ここにやってきて自宅で使用する水を汲みあげていました。 水はふんだんには使われず、米のとぎ汁はふき掃除に使いその残りは植木に撒く等再利用が行われていました。下水は生活排水や雨水で、それほど汚れてはおらず、石組された下水道に流され河川に注がれました。屋根の雨水は竹雨樋から下水に流されていました。雪隠は男女兼用で扉は下半分程度でした。庶民は自家風呂を持っておらず銭湯を利用し、銭湯は交流の場にもなっていました。

長屋の住宅環境は我慢も強いられますが地方から出稼ぎにきた農民には安心して暮らせ 住民同士の交流は濃いものにならざるを得ず、一種の共同体意識が生まれました。長屋は「終の棲家」ではなく共同体意識も一時的であったと思います。しかし濃厚な農村の共同体意識とは異なる今までには無い閉塞されない都会的な感覚が育まれて、庶民の文化が作り上げられたと思います。

関東江戸風土記 リターン

4.4 江戸城

まずは郭の整備を優先的に進めました。旧江戸城の本丸と二の丸の堀を埋め改修された本丸には、石垣を設けて区画し西の丸となる郭を造り、旧北条時代の屋敷を利用しました。 江戸城の縄張りは大きく広がり関東統治に相応しい城構えとなりました。

現在の有楽町駅周辺は日比谷入江です。武蔵野台地の起伏を巧みに生かし優れた土木技術を駆使して築きました。城の西側には武蔵野台地が広がり防御に不安があったので、西側には人工的に開削された堀を多く造りました。河川が作った谷や池を利用した堀もあり江戸城の堀は自然の地形を上手く利用して造られています。

関東江戸風土記 リターン

4.3 第1次架橋

千住大橋

関東代官頭の伊奈忠次が河川奉行となり、1594年11月に架けた橋長66間(120m) 幅4間(7m)の隅田川最初の橋です。 当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり古い街道筋が通る場所と推測され、架橋後 佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋がこの橋に移リました。北岸に「千住宿」が開かれ陸路での往来に加え、荒川水運の物資も集積し、宿場町は大いににぎわい、後に橋の南側まで拡大していきました。

深い位置にある強固な地盤まで打ち込み杭と周囲の地盤との摩擦によって橋を支える橋杭材は伊達政宗が水に強く朽ちにくい高野槇(コウヤマキ)を寄進しています。橋の架かえはありましたが明治18年(1885年)の洪水によって流されるまで橋は一度も流されることなく、橋杭材は使われ続けたと言われてます。

大変な難工事だったようで、忠次は橋近くの熊野権現に成就を祈願し橋が完成すると、橋の余材で社を修理・修復したとされています。これ以来千住橋の工事伴い、熊野権現も補修する習わしとなりました。

      名所江戸百景 千住橋 広重  国会図書館

旅人や駕籠(かご)、荷を積んだ馬などが行き交い、宿場町の活気が伝わってきます。ゆったりとした流れが続く隅田川には、大きな帆を張った荷船や筏(いかだ)が浮かび、橋付近に舟が抑留され、対岸には材木が積み上げられています。

            熊野権現

千住宿

千住宿は千住大橋が架橋されると奥州街道・日光街道の駅馬を継ぐ宿として 指定され発展しました。上野方面からくる日光街道と浅草方面からくる奥州街道を合わせ、宿の中で水戸街道が分かれ橋を渡ると日光街道と奥州街道に分かれる街道の集散地となっているのが千住宿の特徴です。水路と陸路が交わる交通と物流の要衝地となり、多くの人と物が集まるようになり、商業が発展しました。

     千住大橋 昇亭 北寿 ボストン美術館

画面中央より低いなだらかな橋が架かり、大きくカーブする隅田川の向こうに水平線が見え、淡い色の空が絵の半分以上占める独特の構図です。

 富嶽三十六景 従千住花街眺望之不二 前北斎為一 国会図書館

千住宿を大名行列の鉄砲隊後ろに槍隊が通過中です。遠くに花街の建物と富士山がみえます。絵の中央に農家の女性二人が稲刈りの終わった田圃の畦道に座りながら行列を眺めています。先頭の武士も気になって二人の方を見ながら道中の励みとなっています。

六郷橋

長さ107間 (194.5m)、幅4間1尺7寸 (約8m)、高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)の六郷橋が慶長5年(1600年)に架橋されました。 関が原の戦い(10月21日)で家康率いる東軍が六郷大橋を渡橋したとおもわれます。洪水により橋は流され何度か再架されたましが、貞享5年(1688年)の洪水以後、橋は 再架されず 六郷の渡しが設けられました。

木の下に見えるのは川合所(料金所)で渡し賃を払って舟に乗ります。商人が煙草を吸いくつろいでいますが、 船頭は腰に力を入れて漕ぎ出しています。

鎌倉時代に川は敵を防ぐ防衛ラインであり、その役割は江戸時代になってもかわりませんでした。渡船場は、幕府の「道中奉行」が管轄し、渡河の方法や渡賃を規定しました。幕府が定めた場所に定船場(じょうふなば)が決められ、それ以外の場所での渡河は厳しく制限されていました。

関東江戸風土記 リターン

4.2 物資搬入水路

道三堀

江戸城和田倉門に江戸湊に流れる平川から舟で直接物資や建設資材を搬入する道三堀を江戸入り直後8月に開削しました。その道三堀の先に小名木川(おなきがわ)を開削し江戸城築城の物資はもちろん、行徳で産する塩(塩の生産地は限られており重要な場所でした)を江戸に運ぶルートを確保し、更に小名木川の東にも新たな水路「新川」を開鑿しました。当時は軍事的な目的も兼ねて迅速に移動できるよう、わざわざ海岸線の内側に直線的な水路 を設けたと推測されます。 後に江戸最大の物流水路へと発展する事になります。

   名所江戸百景  八ツ見のはし  歌川広重 国会図書館

 この付近で江戸城東側の外堀であった外堀川と隅田川につながる日本橋川、城内へ日本橋川からの物資を運び入れるための道三堀(どうさんぼり)が交わっている水路の交差点ともいえるような場所です。 一石橋から手前日本橋川の向こう道三堀に架かる銭瓶(ぜにかめ)橋を望んいます。道三堀の先に江戸城和田倉門があります。

銭瓶橋 

 慶長見聞集によればこの橋のたもとで銭が入った瓶を掘り出         し、代官に届け出た由来から命名されたそうです。

小名木川(おなぎがわ)

      小奈木川五本まつ 広重 国会図書館

江戸への塩の安定供給は重要事項で、塩の産地である下総国行徳から塩を運搬する水運経路として小名木四郎兵衛が開削し小名木川と命名されました。 高速運搬を意識して隅田川と中川を東西につなぐ約5キロを一直線に結んでいます。後に利根川東遷と組み合わせ奥州方面から江戸への物資輸送の重要水路となりました。

    江戸名所図 「小名木川五本松」

屋敷より松の枝が小名木川まで伸び、江戸の名所でした。

    川上と この川下や月の友 芭蕉

関東江戸風土記 リターン

4. 江戸ニュータウンの建設

城下町に暮す人々は身分に応じて役割が与えられていました。

  • 有力な武家や旗本を集住させ、強力な軍事力を組織化し、司法や行政の担い手とさせる。
  • 人心安定のための神社・寺院に農業地を与え、宗教勢力の要としての役割を担わせ、公権力の権威化に寄与させる。
  • 商人・職人等には免税や営業特権の付与等の優遇策によって城下町に招致し、手工業生産・金融・商業・流通等の側面においてセンター機能を果たさせる。

身分に応じて住む場所が定められた江戸城下町は、およそ3期に分けて大規模な水利・土木事業により建設されました。

第1期 関東移封期 1590-1594

 大名徳川氏の城下町として建設 秀吉の伏見城建城のため中断して います。

第2期 征夷代将軍任命期 1603-1607

 諸大名に助力させた天下普請の首都造りが始まりました。大阪城  を拠点として依然 強大な勢力を持っていた豊臣家の存在があり状況は複雑でした。豊臣恩顧の西国大名を牽制する拠点として丹波亀山城・篠山城、諸大名への抑止と東海道の防備を固める名古屋城、北陸・東海の交通の要衝地である彦根城、京への睨みを利かす膳所城を天下普請で築城しました。

第3期 江戸城外郭拡張  

大阪の陣で豊臣家が滅亡すると秀忠・家光による大名を動員した江戸の大都市化を行いました。経済の中心であった大阪を徳川支配の象徴として、秀吉が築いた大阪城の実質的な新築城に相当する造り変え、京都御所や公家町を守護し徳川の将軍が上洛時の宿泊所としての二条城等政治拠点の充実を図りました。

4.1 第1期建設 1602年頃(慶長7年)

 行政・土木工事を得意とする地方巧者の家臣 伊奈忠次(元今川家臣)、大久保長安(元武田家臣)、小泉次太夫(元今川家臣)等が江戸と関東のインフラ整備を開始しました。

 インフラ整備

  • 上水道整備       神田上水
  • 物資搬入ルート     道三堀 小名木川
  • 架橋          千住橋 六郷橋

上水道

1590年関東移封の前に家康は家臣の大久保藤五郎に上水道の見立てを命じています。 藤五郎は家康の小姓を務めていましたが三河一向一揆で家康を守ろうとして受けた銃弾の傷がもとで、歩行が不自由となり菓子作りの職人になった人物です。

当時江戸の南西部では井戸に海水が入り、北東部は台地で飲み水を得られる場所は限られていました。藤五郎が探し当てたのは小石川の湧水を水源とする神田山脇の細流と溜池でした。その水を巡らせる用水事業を短期間でやり終えました。 1606年頃には様大名の浅野幸長(よしなが)が願い出て溜池を外堀の一環とすると共に飲料の上水ダムとして作り、北東地域に巡らせる上水道が出来ました。

溜池

溜池は慶長11年(1606)頃外様大名の浅野幸長(よしなが)が家康に願い出て、江戸城防備の外堀の一環とするとともに、当初水質が良く飲料用の上水ダムとして作りました。瓢箪形の溜池の面積は不忍池より広くて風光も美しく、当初は水質が良く上水として使用されました。        

広重 赤坂桐畑 国会図書館

西岸から溜池を望む桐は、溜池の補強のために成長が早い木として植 られました。溜池は風景も美しく、周囲には民家も立ち並び始め蓮を植えて鑑賞し蓮根を採取したと伝えられています。

牛ヶ淵

    飯田町九段坂之図 広重 国会図書館

「淵」とは、深く水をたたえた場所のことで牛ヶ淵は麹町から続く台地の際にあり、この付近の湧水をせき止めてた飲料水用のダムを造りました。正面に見えるのは田安門の土手で 現代のダム機能を持っています。

葵ヶ岡

外濠としても役割があった溜池の水を飲料水として確保するための上水ダムで現在の港区虎ノ門あたりに浅野幸長が建設しました。

北斎 東都葵ヶ岡の瀧   国会図書館

溜池のせきから流れ出した水が滝となり、その水音から「どんどん」と呼ばれ親しまれていました。現在は埋め立てによりその姿を見ることができませんが江戸時代には名所として知られていました。

神田上水

江戸の人口が増えると小石川の上水では不足し、井之頭池を起点とする神田上水が引かれました。神田上水は途中数本の川と合流し目白の関口大洗堰に至り、ここから給水されました。給水順位は武家地が優先され残水が町人地に給水されました。

     せき口上水端はせを庵椿やま 広重  国会図書館

この絵で関口大洗堰は上水の直ぐ下流にあります。右手の山は椿山(現在椿山荘)で、見えている建物は松尾芭蕉案(はせを庵)です。芭蕉は37歳の頃江戸に出てきて日本橋の魚問屋に居候し、俳諧宗匠になる以前は神田上水の改修工事 (1673~)に従事していました。後に門人たちが芭蕉庵を建てました。

東京名所四十八景 関口目しろ不動 昇斎一景 文京ふるさと歴史館

神田上水は関口大洗堰で神田川に分流し、水戸藩江戸屋敷(後楽園)から水道橋を渡り、お茶の水を経由し神田方面に給水されていました。

小石川後楽園には神田上水跡が残っています。

井の頭

徳川家光が鷹狩りに訪れ、「井(水道)の頭」と命名したと言われています。

         井の頭 広重  国会図書館

井の頭池と付近一帯の林は幕府の御用林でした。左下は水の神様である弁財天が祀られている社で神田上水は池の奥が起点となってます。

 遠くの方へと飛ぶ小さな水鳥が遠近感を表し、池の中の細長く連なる草は繊細に描かれています。濃いブルーと淡い水色の池の色は広重が得意とする描写です。遠くに見えるのは秩父の山並で途中は 全て黄色で省略された広大な武蔵野がひろがっています。

お茶の水

この地にあった高林寺の井戸水が良質で将軍家に献上されたことが地名の由来となりました。神田川(外堀)沿いに大樹が鬱蒼と茂り茗渓(めいけい)とも呼ばれる景勝地でした。神田上水を渡す懸樋が万治年間(1658-1661)に架橋され江戸名所の一つとなりました。お茶の水の懸樋の西に架かる橋が水道橋です。

        御茶ノ水 広重 国会図書館

 名所なので、皆さんおしゃれした姿で楽しんでおられます。広重は絵の中央に歩みを止めた男性と、男性を見つめる女性を描きました。このまますれ違うのか、何かが進展するのか? この絵を見た人はお茶の水に行こうと思い人が集まる事になります。

     お茶の水 広重 国会図書館

御茶ノ水は人工の渓谷

飯田橋付近から秋葉原付近までの神田川は、仙台濠とも呼ばれ仙台伊達藩による大規模な土木工事で造り出された人工の渓谷です。神田山(現在の本郷台地)を分断し平川、小石川、石神井川3つの河川をまとめて接続して神田川から隅田川へ放水する大規模な河川の付け替え工事が行われました。

神田山の先端はならされ徳川直参の駿府家臣が住んだので駿河台と呼ばれました。

     名所江戸百景 水道橋駿河台 広重 国会図書館

本郷台地から神田川に架かる水道橋越しに駿河台の町を見下ろしています。武家屋敷の方は武家習わしの吹き流しや幟旗が見え、鯉のぼりは町人の文化でした。

      名所江戸百景  昌平橋聖堂神田川 広重 国会図書館

広重が描いたお茶の水渓谷です。                                       昌平橋から対岸の昌平坂を望み、坂の後方に茂る森の中には、湯島聖堂や幕府の学問所・昌平黌(しょうへいこう)がありました。湯島堂は中国春秋時代の儒教創始者である孔子を祀った廟で、地名「昌平」も孔子の故郷・魯の昌平に由来しています。

関東江戸風土記 リターン

3. 家康 関東移封

 1590年7月13日 家康49歳

家康は北条が降伏する前から秀吉が北条の支配地を徳川に託すると察していました。家臣にも元の領地には戻れない事を伝え、あらかじめ覚悟させていたと思われます。五カ国統治時代は8年間余りで終り、家康の移封を転機に関東は中世から近世へと時代が移りました。

秀吉の思惑

 徳川家康の関東移封は、家康を畿内から遠ざけ豊臣政権の権勢が行き届かぬ東北大名の抑えとする秀吉の天下統一事業を推進する政治政策として考えられます。

 秀吉はこれまでも有力大名の配置転換を実施してきました。故信長の小姓で信長の娘冬姫を娶った信長の寵臣 蒲生氏郷(がまごううじさと)は秀吉の九州平定でも活躍した実力派です。推測ではありますが信長の影響力を畿内から遠ざけ、秀吉に明白には従わない奥州の伊達政宗を監視させる役目を与え松阪18万石から会津42万石へ移封されました。結局氏郷は伊達政宗と度々対立しながら病死しています。  

 小牧・長久手の戦で家康に最後まで戦の継続を家康に主張した佐々成政は越中から肥後 熊本城に移封され検地に失敗して一揆が勃発しこれを治められず切腹しています。 移封はコストが伴い財政を圧迫させる常套手段なのです。

関東は北条政権下で地租が安価で、検地により石高を増やすと不満がたまり残存する旧北条勢力による反乱が勃発する恐れがあるリスクもあり、家康の政治力・経済力を削ぐ秀吉の思惑も否定できません。

家康の決意  江戸を政治・経済の中心とする関東統治

 従来の考えであれば、統治拠点は占領した北条の小田原、もしくは源氏の鎌倉とするのが無難と思いますが、江戸を決断したのは先を見通した家康の慧眼かと思います。

 関東の地勢は日本最大の関東平野を有し、平野の外縁の山岳と利根川が天然の防壁となっています。 江戸湊は舟運による流通が既に行われていました。ウォータフロントは経済活動の中心で、秀吉の大阪城は大阪湾を、信長の清州城は伊勢湾の津島に隣接していまし、近世の城下町はウォータフロントをベースに政治と経済をセットにしていました。

 しかしながら当時の江戸の地形は、西・北側(山の手)は火山灰堆積による台地で起伏が激しく、東側(下町)は荒川と当時は江戸湊(東京湾)に流れ込んでいた利根川下流の低湿地帯で、太田道灌の築いた江戸城近くは日比谷入江が深く入り込み、城下町として十分な土地が不足していました。

3.1 太田道灌の江戸統治

 時代は少し遡り関東は享徳の乱(きょうとくのらん:1455ー1483)と呼ぶ戦国時代でした。関東管領を代々務める上杉氏に不満を持つ関東周辺の領主の支持を集め「古河公方」と名乗る足利茂氏と断続的に戦が続いていました。 下総古河城を拠点とする足利茂氏側であった下総の武将千葉氏への備えとして太田道灌は江戸を選びました。当時江戸の西部と北部は台地で生活水が乏しくて人家が無く、台地の淵に農家が少し、江戸湊の漁村がある土地で、背面は広大な大地で葦やススキの生い茂る原野でした。

 道灌は平川を江戸湊に流れる物流の動脈として高橋に諸国と交易する市を開き、武蔵要衝の地江戸を川港都市として発展させ、戦上手な城作りの名手であったばかりでなく、経営感覚のある統治者でした。しかし道灌の主家である上杉定正は1486年8月5日 道灌を相模糟屋館(伊勢原市)に招いて暗殺してしまいました。

 16世紀になると上杉から自立を目指した道灌の孫 江戸太田資高(すえたか)は北条氏綱(うじつな)と結び,その結果北条氐は武蔵を手中に収める事に成功し 江戸太田氐は北条氏の勢力下に入りました。 その後上野・武蔵・下総・上総・相模を支配した北条も江戸城を重要な防衛拠点として、相模国国府と江戸城を結ぶ中原街道を築いています。

3.2 関東支配基本政策

家康はこれまでにはない集権的に領地を支配する政策を行いましました。

  • 五ヶ国統治時代は国別支配でしたが、江戸を中心とする関東の一円的 な支配体制の実現
  •  直轄地(百万石)を設定し、軍事と民政の強力な基盤の拡充
  •  軍事の武功派家臣と共に、民政中心の史僚派家臣の登用による地域開発

3.3 知行割(家臣配置)

知行割は権力の空白化をさけるため領地支配の最優先事項で、移封後直ちに家臣が配置されました。有力大名に通じる街道沿いの要衝には重臣を、江戸周辺には旗本・譜代の家臣を配置しています。

井伊直正の配置 高崎

 先祖代々遠江の国 井伊谷の領主の家柄で父 井伊直親は今川に仕えていましたが直正2歳の時父が誅殺され母方の親類にかくまわれて育てられ、家康に見だされて小姓として仕えました。家康の関東移封とともに箕輪城主となっていた井伊直政は1597年家康の命により、中山道と三国街道の分岐点で交通の要衝であった高崎の和田城跡地に近世城郭を築きました。

榊原康正の配置 館林

上杉、武田、北条の3家でこの地を巡って争い、上杉(長尾景虎) が関東管領として要衝の地 館林を支配していました。

家康が関東に移封にて徳川四天王の一人「榊原康政」は館林に入り、10万石の知行地を与えられて館林城の拡張整備と城下町全体を堀と土塁で囲む「総構え」の構造に改造しました。

 城下町の中を通る日光脇往還道 を敷設しました。日光脇往還道は中仙道の鴻巣宿(埼玉県巣鴨市)から北上し、館林を北に抜けると栃木県佐野で日光例幣使街道に合流する幹線街道でした。この街道により人の往来が盛んになり館林は発展しました。

関東江戸風土記 リターン

2. 小田原征伐

 秀吉にはっきりとは臣従しない北条に対して、北条討伐令を出したのは1589年11月でした。朝廷が承認した北条氏への弾劾状が出回り、北条討伐は正義の戦いとなりました。秀吉が構築した中央集権的な体制下では味方でなければ敵とみなされ中立は許されないのです。

家康出陣

 先陣を務めた家康は1590年2月10日に駿府を発し、箱根越えの手前小田原から直線距離で10Km程に位置する長久保城に着陣しました。家康の家臣 伊奈忠次は秀吉軍の領内駐留・通過の便宜を図るべく、城の整備、舟橋の架橋、茶屋の設置を行い、さらに兵糧も供出しました。

 秀吉は小田原征伐の直前に、北条支配下の郷村の有力者に対して、秀吉の軍勢が百姓や民に対して火付けや乱暴を禁止する禁制(きんぜい)を発布する宣撫活動を行い、北条征伐後秀吉の支配下になる領民の心を安定させています。

     柿生郷土資料館 秀吉の禁制 

天正18年4月 室町時代中期に麻生に土着し、蔵国樹郡麻生郷の在地土豪的な小島氏に出され禁制。他にも稲毛郡作延郷・長尾村(井田家)・平土橋村宛に出されています。

小田原開城 1590年7月5日

各地にある北条の多くの支城や武蔵国の西に位置する軍事拠点八王子城が6月23日に陥落しました。小田原城は十重二十重に取り囲まれ、もはやこれまで。前当主の北条氏政が城を出て秀吉の陣営に出向き降伏の意を示しました。切腹を命じられたのは北条氏政、一家衆筆頭の北条氏照、宿老 松田憲秀と大道寺政繁は切腹、家康の娘婿である氏直と、かって上洛し秀吉にお面通りを得た韮山城城主で先に降伏した氏規は助命されて追放され、ここに北条家は全ての支配力を失いました。

関東江戸風土記 リターン

1.五ヶ国統治時代

「五ヶ国」とは「三河、信濃  、遠江、甲斐、 駿河」で、「五ヶ国統治」は後に家康が関東を支配した領民統治政策の基礎となりました。

1.1 五ヶ国統治時代への道程

 戦国時代の真最中、1542年12月26日に家康(竹千代)は三河に生まれました。父の松平広忠が三河国を支配していましたが、東の今川義元、西の織田信秀に挟まれ、三河領土はどちらに占領されてもおかしくない状況にありました。 今川に人質として送られてきた8歳の竹千代を今川家当主 今川義元は岡崎城城主松平家長男として尊重しました。  16歳で義元の姪 瀬名姫(後の築地殿)を娶り長男信康を授かり、今川家の家臣として初陣を飾っています。五ヶ国統治時代へのプロセスは波乱万丈、戦国時代を生き抜く武将としての経験を積むことが出来た時代でした。

桶狭間の戦い 1560年6月12日

 尾張に侵攻した今川義元と尾張の織田信長の合戦で信長が義元の本陣を奇襲し義元を討ち取りました。この時家康は「松平元康」と名乗っており織田信長と戦う姿勢でしたが、義元の後を継いだ氏真(うじさね)は東海進出を狙う武田から攻められ、相次ぐ離反を抑えきれず家中は乱れました。松平元康は今川からの独立を決断し「松平家康」と改名し1562年正月信長と清州同盟を締結しこれが戦国時代の転機となりました。

三河一向一揆  1563ー1564年  

 当時 延暦寺、興福寺、本願寺は荘園や領地を維持するため武力を備え、守護に匹敵する力量を有する大寺院でした。 三河を含む東海地域は、畿内・北陸と並び浄土真宗(本願寺)の強い地域で今川時代も特権保障による寺中心の地域社会の秩序が形成されていました。

 家康が三河領地化を進めるうえで寺の特権を認めようとせず、一向一揆が勃発しました。蓮如により阿弥陀如来を信ずれば極楽往生出来ると教えられた本願寺門徒が三河一向一揆の核となり、松平一族の門徒武士が家康に離反し、親今川勢力も反家康に連携する三河が分裂した騒動に広がってしまいました。 寺院に立てこもった一向衆と膠着状態となったのですが、信長の援軍を得て一向衆は和睦し、武装解除されました。本願寺の寺院は浄土宗に改宗され、本願寺坊衆は家康領地から強制退去されましたが、在俗門徒の信仰までは問いませんでした。家康は反家康勢力を三河から一掃し三河領統一を果たしました。朝廷より「徳川」姓を賜り、三河守として従五位に叙任され、守護大名としての地位を築きました。

三方ヶ原の合戦 1573年1月25日

足利義昭の命により、武田信玄が織田信長を討つために信長包囲網を形成し遠江に侵攻しました。家康は浜松城に籠城せず信玄の大軍相手に不利な野戦を挑み生涯で最も惨めな敗北を喫し、「勝ち戦だけを知り、負け戦の対処法を知らないのは身の破滅である。」そして撤退戦の難しさを学びました。 今川から得た遠江は武田に奪われ領土は三河のみとなったのですが、1573年信玄は伊那の駒場で倒れ、勝頼が後を継ぐことになりました。

長篠の戦い 1575年7月9日

信玄の後を継いだ勝頼は三河進出を狙い、それを防ぐ徳川・織田連合軍との戦が勃発しました。 勝頼は家康の属城遠州の高天神城を奪い東遠江三河に進出しさらに長篠城を攻略しようとしたのですが長篠の手前 設楽原で信長の鉄砲隊に大敗し、多くの有力武将が討ち死にしました。家康は武田支配の遠江・駿河に侵入し、駿府を無抵抗のまま占領する事が出来ました。強力な織田信長との軍事同盟があったからこそ、 家康は武田勝頼との抗争に戦い抜く事が出来たのです。

時は進み織田信長が1582年本能寺の変にて没した後、家康と秀吉との間で、天下取りの争いが水面下で始まり、家康は浜松城から駿府に移りました。1586年12月4日、家康45歳の時でした。

天正壬午の乱 1582年

信長没後、武田氏の旧領であった織田氏の領地(甲斐・信濃・上野)を巡る、家康と北条との争乱で、信長の次男織田信雄が仲介し甲斐・信濃は家康が、上野は北条が切り取り次第として和睦し、家康の娘・督姫(すけひめ)を長子北条氏直に嫁がせて徳川と今川との同盟関係を築きました。

1.2 五ヶ国統治時代 1582-1590年

駿府を拠点として五ヶ国「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃」を統治する五ヶ国統治時代で家康は統治される側に眼を向ける構造改革を行い、領地支配を確立しました。

五ヶ国総検地

武田が滅亡し治安が不安な村々に対して基本的には秀吉が行った太閤検地を上回る優れた五ヶ国総検地をおこないました。 それまで土地台帳には複数の名義人が記載され田畑の所有者を曖昧にし、身分や支配関係で田畑の所有権を握っていました。太閤検地は田畑を耕作する人だけを所有者として土地台帳に記載した事により、荘園制度が終焉しました。 五ヶ国総検地も耕作する人だけを土地台帳に記載する事では同じですが、村役人(名主)が土地管理者となり村役人が責任者となって村全体の年貢高を領主に納める村請制で、村人の結束が強まり郷村社会の自主性が高まりました。 

太閤検地と五ヶ国総検地

検地目録は石高を示さず、自然災害や戦等があった場合等実情に合わせた控除をもうけて年貢高を算出する柔軟な年貢制度でした。 検地が終わると、検地奉行は年貢や賦役(軍事・お上の御用等)基準などを示した7箇条の約定書を交付しました。約定書は最初に「」と書かれ、そこには家康の「福徳」が押されており、約定の終わりには「もし地頭が理不尽な事を申し出た時には訴状をもって申し上げる事」とありました。

家康 七ヶ条定書

福徳 「定」の文字に押された家康の朱印                                                              代官 大久保忠左の名と花押  

戦時や賦役による農民負担軽減

 戦時には石数に応じて馬、人足の提供が定められ、人には扶持米1日6合、馬には1日1升の大豆を地頭が負担する事が定められています。       地頭の賦役であれば年間10日、代官であれば3日と定め、扶持米を戦時の賦役と同じ基準で負担する事が定められていました。

 これまで戦時の調達の定めはなく、支配者が好きなだけ人馬を調達していました。給付はなく戦に勝った場合、相手の村の財産・人の強奪を認める「乱取り」がこれまでの慣例でした。家康は給付する事により強奪をおこさせないよう定め、領地支配を円滑に行う配慮をしていました。

1.3 小牧・長久手の戦い 1584年

畿内を手中にした羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間の戦いです。

信長の没後信長の影響力を排除したい秀吉は信長の次男織田信雄の居城であった安土城を退去させ、以降信雄と秀吉の関係は悪化しました。秀吉は信雄の家老を懐柔しようと試み、信雄は親秀吉派の家老を処刑してしまいました。これに激怒した秀吉は信雄に対し出兵を決断しました。信雄は家康と連合し、紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、織田・徳川陣営に加わり羽柴包囲網を形成し北陸、四国、関東においても合戦が起こる、東軍・西軍が衝突する関ヶ原の戦の前哨戦のような全国規模の戦役となりました。  ところが信雄は領地の伊勢・伊賀を攻められて、秀吉が伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れると信雄はこれを受諾し、事実上の降伏でした。信雄が戦線を離脱すると、戦の大義名分を失ってしまった家康は三河に帰国し、家康と秀吉は和議を行い家康の最年長の息子於義丸を秀吉の養子として差し出しました。秀吉は雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親を打ち破り紀州と西国を平定し秀吉の勢力は増し、その分家康の勢力は後退しました。秀吉と対抗するには北条との絆を強める事が重要となりました。

1.4  秀吉の天下統一事業

 1585年秀吉は信長が得た右大臣を越えた従一位関白に就任し、家康に対して圧倒的に政治的優位な立場に立ったのですが、秀吉の上洛要請に応じないが対抗する姿勢も見せない曖昧な態度を取り続けていました。

 秀吉は異父妹の朝日姫(佐治日向守の妻であったが離婚させた:御年44歳)を家康の正 室として嫁し、さらに生母の大政所を人質として送り、遂に家康は上洛し豊臣秀吉に臣従する決意し上洛し秀吉に臣従しました。。

 秀吉はまだ恭順せぬ北条との同盟を終らせる事を示唆し、家康に北条を恭順させるよう命じました。家康が恭順し東の脅威がなくなった秀吉は1587年九州を平定し島津の薩摩・大隈以外の領土を没収し西日本における天下統一は完成しました。 1588年に大名間の私闘を禁止する惣無事令(そうぶじれい)を発し、聚楽第(秀吉の京都の邸宅)に後陽成天皇を招き、諸大名を集めて秀吉への服従を誓う起請文を提出させました。 

 しかし北条は上洛には応ぜず家康の説得で起請文を提出し北条家当主の弟氏規(うじのり)を秀吉にお目通りさせたので、北条はこれで落着したと考えていました。しかし真田と北条の紛争に対して秀吉が下した裁定に逆らうような北条の武力履行は惣無事令違反と看做されてしまいこれが小田原征伐の口実となったのです。これが小田原征伐の口実となったのです。

関東江戸風土記 リターン