ことぶきや模型店

登戸で商売を始めて70年」

  語り    安陪 修司さん 「ことぶきや模型店」店主

  聞き書き  勝野井 央子

  2024年5月3日

 2024年3月31日、向ケ丘遊園駅北口でほぼ70年商ってきた「ことぶきや模型店」が閉店した。店主の、安陪 修司さんは、84才。子供の頃の登戸、店の歴史、今回の区画整理事業、今後の登戸の展望を、穏やかに、感慨深く語った。安陪さんは、2014年から10年間、多摩区商店街連合会の会長を務めた。

この地(登戸二〇八七番地)に来たのは、昭和25年(1950)、小学校5年の時ですよ。

小田急線の遊園駅北口から登栄会通りの15軒目くらいの所に家はありました。当時、東通りと登栄会通りという比較的大きい通りがあって、道幅は今のとおりですけど、材木貯蔵所があり、低層の木造住宅が点在している状態でした。小田急の貨物の引っ込み線がありましてね、そのわきに桜の木が10本近くありました。駅前には、丸山教さんの、今のものより大きい円筒形の広告塔がありましたね。当時、丸山教さんは、大祭や参拝の客がお見えになっていましたからね。まだ、駅の周りも畑が多くあって、のどかな風景でした。小川で魚取りをしたり、小泉橋のところで泳いだりしてましたね。

父が駄菓子屋を始める

家は二階建てのしもた屋(=商店街の中にあって商業を営まない家)で、一階の広間を、店に貸してくれっていう人が多かったので、昭和29年頃(1954)、父が簡単にできる駄菓子屋を始めたんです。父は勤め人だったので、店番は母。内職みたいなもんで、私たち兄弟3人は、店にいっては、よくつまみ食いをしていたもんです。当時、高校生だったけど、母の商売を手伝っていました。駄菓子類は量り売りが主で、「百グラムはこのくらい」って感覚もつかめるようになった。私が結婚後は妻が店番をしてくれました。

高校生の時、模型材料を仕入れる

元々、模型好きの私は、父に連れられて、東京浅草橋の問屋街で、仕入れの仕方を教わり、その頃、流行しそうな模型材料や玩具類を仕入れて駄菓子の傍らに、置くようになりました。木の角材、木製の模型、学校の工作に使う豆球、紙製の飛行機なんかですね。お客さんは木を削り、自動車、電車を形造り、色付けをして、完成品としてた。そのうちに、模型の材料が、木からプラスチックに代わってきたんです。昭和33年 (1958)マルサン商店(ラジコン、プラホビー、鉄道模型、ミニカーなどを売っていた店)が、潜水艦ノーチラス号を発売しました。船体を二つに合わせて作る精巧な模型でプラモデルの始まりです。

 テレビ放送の30分番組で紹介され、飛行機、船、自動車が一気にプラモデルに変わっていきました。大学の時でしたが、それに合わせるように昭和35年頃から模型売り場も、菓子ケースを押しのけるように、少しずつ拡張してゆきました。

大学卒業後、勤め人になり、土日祝日を模型店に専念

 昭和40年(1965)関水(せきすい)金属がNゲージの鉄道模型を発売しました。 当店も鉄道模型HOhHhhhHhhHWHOHOhoゲージ(線路幅一六ミリゲージ)の取り扱いを始め、合わせて自動車類、トミカ等の商品を置き、完全に模型店に衣替えしてしまいました。次に、ミニ四駆動の競争車が盛んになりましてね。 小学生に大人気になりました。何回かのブームを乗り越えて、現在のガンダムとかエバンゲリオンなどのロボット物の全盛期になったのです。 プラモデル、鉄道模型は、それぞれ奥の深い商売でして、付属する部品類、塗料等の注文も多くなり、同時に小、中学校の生徒さん達が夏休みの宿題で作る模型の工作材料も扱いました。知らず知らずのうちに関連する製品を揃える模型店になってしまったのです。

店は、12畳くらいの面積だったので、品物が山積状態でしたが、片隅にレールを敷き電車を走らせるレイアウトにしました。それを楽しみに、小さいお子さんが毎日見にいらしゃったんですね。そのお子さんが成人して、ご結婚なさって、子供さんを連れて  「お父さんは、これを見に、通っていたんだよ」「昔はいろんな電車が走っていたんだ」とか色々説明している光景を見ると、「アア、これをやっててよかったなあ」という喜びを感じ取って、七〇年近い今日に至っています。                  これが、店の概略ですね。

本当はもっと続けたかったんですけどね・・・

区画整理事業時、仮店舗でやっていたんですが、この三月末で出てくれって言われて、行く場所が無いので、閉店いたしました。                     代替店も探しましたよ。でも、区画整理で地価がものすごく上がり、物価高で建設費も頂点くらいに値上がりしているんです。 大手、大型スーパー、コンビニ、通販には、小売店が、死ぬほど努力しても、価格,品ぞろえで、太刀打ちできない。         昔の商売は、自分の住まいにお店を出して、家族経営か、店員を一,二人雇って、なりたってたんだけれど、今は地代又は家賃、光熱費が高く、採算が取れない時代になっちゃった。大手だったら、いろんな代替品があって、一つがダメでも他のものを売るといったことができるけれど、小売業界ではそう簡単にできない。

前は登戸でも模型屋は三~四軒あったし、おもちゃ屋もありましたよ。今は皆無です。今は「その品物はない」と言うと、「じゃあ、通販に頼もう」って言うのが一般化している。特に若年層が。通販は大量仕入れで、値段が安い。大手と小売店との格差が広がっています。若かったら一念発起でやるんだけれど、84才じゃね。娘二人は嫁いじゃって、跡取りがいないのも悩みの一つだったですね。家も、住まいを取るか、店舗を取るか、決めかねていたが、住まい取ることにきめました。まあ、ご多分に漏れず、跡地にマンションを建てますが、店は出来ない。それもまだ建っていない。

私の模型店考

因みに、私がどのくらい模型が好きかっていうと、大学で授業のない時など時間があれば、最近ではここ一~二年は毎週、浅草の問屋街に行ってます。鉄道好きのマニアの方は話好きで、あまり長いと草臥れちゃうんですけどね。今の子供は、スマホやゲームのお陰で創造力が退化している。店で、実際に動く模型を見て、「面白い!」って物造りに向かうんだと思いますよ。 ・・やすりを使ったり、色を塗ったり、付属のパーツを買ったり・・思考力や集中力も養うことになります。模型売り場は広いスペースが必要ですが、今は賃料が上がって、売り場が狭まっています。百貨店も模型の展示スペースを減らしてますね。物造りが好きな子供を育てるために、町の模型店は必要だと思いますね。

区画整理事業による街の変化 

区画整理以前は、色んな店もそろってきましたから、登戸の外側の生田、長沢、宿河原など近隣の方々が登戸に買い物に来て、この辺の商店会は栄えていました。つまり遠方から集客できるようになってたんです。その頃は、生鮮産品を扱うお店も多くありましたね。八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋、お茶屋なんかがね・・・それが一軒消え、二軒消えて、今はスーパーやコンビニに代わってきた。客と店の人とが会話をしながら買い物できた時代から、現金を持ち歩かない電子マネーの時代に変わちゃって、商売の形態も大きく様変わりしています。

区画整理のお陰で、町はまるっきり新しい通りを中心に飲食店、不動産屋、美容院などいろいろできた半面、スーパー、コンビニの進出で、一般の物販店は大きく後退しています。新しいマンションとか賃貸入居するような建物が多くできて、住み良くなったけれど、従来からいた人がこの地を離れ、新しい人が多くなってきているので、町の交流関係が希薄になってきている気がします。

区画整理事業の問題点

 昭和六三年より始まった区画整理事業もあと二年位で完了するところまで来ています。道路整備が主な事業なので、建物に関しては、行政は、立ち入れない為、移転問題で時間がかかり過ぎてしまった。事業の完成は見えてきたが、今後の街造りを、他都市と比較すると、都市再開発計画とか建物をセットバック方式(建物を道路ぎりぎりぎりに建てるのではなく、道路から少し離して建てる方式)にすれば、余裕ある通りになったと思います。政府の補助金を使って建設費の一部を賄って、美しい道路造り、街造りをやれば、もっとよかった。行政からは「セットバック方式でやれば余裕のある道路になりますよ」という提言はありましたが、現実は厳しくて、地主さんは大切な土地を国に提供することはできなかった。区画整理事業の中で、区民がいつでも使える、集まれる集会場のような施設ができなかったのが残念ですね。そうすれば、登戸にもっと多くの場所から人が集まって、活気のある街にできたのではないかと思います。まあ、行政は、区画整理事業=道路整備中心にやればいいんで仕方がないんでしょうがね。    ❘まあ、この問題は話が尽きないね❘

新しい登栄会通り    

遊園駅北口から区役所方向の道駅からパン屋さん「セチュンボニデ」の交差点のところまで、中型車以下の一方通行で、スピードの出ないように、一台幅の緩くくねった道にして、店に荷下ろしのできる駐車スペースと、何より余裕のある歩道をつくるくねった道幅の標式はポールを立てるとか、白線またはカラー線で明記するとかいろいろ工夫するみたいだけど、商いが盛んになるようなものができるといいね。

今後の登戸の展望

登戸は、多摩丘陵の下、多摩川が流れ、まだまだ緑を楽しめる地域が残っています。  生田緑地を始め、昔からの神社仏閣など、貴重な財産が多数残っていて、人を呼び入れる要素を備えています。区画整理事業の完成後の姿と融和することができるとの希望を持っています。

リターン