原嶌 晃さん 2025年6月24日
原嶌家の屋号は「小間屋」です。
親戚の調べによると、江戸時代後期に、拝島(東京都昭島市)で醤油問屋の支配人をしていた祖先が、この登戸の地に住まいを構えたのが、我が家の始まりだそうです。私で6代目となります。
もともとは農家で、繭つくりから、桃や梨の果実栽培をしておりましたが、戦時中、食料増産で、梨畑は田圃に切り替えられ、稲作に転じました。
しかし、「小間屋」の屋号からわかるように、農業をしながらも、小間物屋をしておりまして、今でいう化粧品業ともいえるもので、煙草や一部薬も扱っていたそうです。このような商いの傍ら、質商(安政年間~)も営んでいたそうです。人の物を預かるということから蔵がありました。
その蔵も、代々年を重ね老朽化が進んだことにより、昭和32年に地元の石澤石材店さんへ依頼し、質蔵土蔵の後ろに大谷石で蔵を新築したそうです。
今回の区画整理時にその石蔵を残すという事で、曳家により、現在の場所へ移動をしました。当時の専門家から「一つ一つ石に番号を振り、取り壊し、もう一度初めから積み直さないとダメだ」と言われたことを記憶しております。曳家という現代技術の素晴らしさもその時思い知らされました。
これからも、登戸で唯一の大谷石の石蔵を大切に保存していきたいと思っております。(注 土蔵は井出家にもあります)
父 兼房 & 登戸区画整理事業
今は明治大学生田校舎の一画になって居ますが、そこに、戦時中、「第九陸軍技術研究所」(通称:陸軍登戸研究所)があり、父はそこの「経理給与係」として働いていました。昭和20年2月3日に召集令状を受け、溝の口の陸軍東部第62部隊に入隊し、伍長に昇任と同時に終戦をむかえ、天皇陛下の詔勅を聞いたそうです。
父は、その後、地元の皆さんのお陰で市議会議員となり、この区画整理事業に携わることとなりました。昭和50年6月に地元町会から代表者数名の推薦をいただき「登戸地区都市整備懇談会」を発足させ、街づくりの手法のうち「区画整理事業」・「再開発事業」・「街路事業による単独買収」等を皆さんで検討したそうです。 昭和56年4月、事業手法を「土地区画整理事業」とすることで懇談会と川崎市は合意し、登戸のまちづくりの基礎ができたそうです。
昭和62年9月には川崎都市計画事業 登戸土地区画整理事業の都市計画(案)の縦覧が行われ、昭和63年3月都市計画決定が告知され、9月事業計画が決定、スタートし来年 令和8年3月にすべての事業が終了する運びとなる。これは、亡くなった父にとっても、息子の私にとっても、感慨深いことです。
これからの登戸に想う事
「温故知新」の気持ちを持ち、昔ながらの職人の街・登戸、そして津久井道の宿場町であった登戸、その歴史を語れる方と、新しくこの登戸を故郷として選んでくれた方々との触れ合いを大切にしていきたいと考えています。登戸ならではの商店街の活性化、それは新しい知見を持った方とのコラボ等でやり方をみんなで考えていければと思います。
注)今回は聞き書きではなく、原嶌氏が書かれた原稿です。