8.3 城下町

青山

三河の出身で家康に仕えた青山忠成は、家康が関東移封されると江戸町奉行に任命され、原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広い屋敷地と5000石の領地を 賜りました。現在の東京都青山の地名は、屋敷地の一部であったことが由来といわれています。

        東都青山 歌川広重  ボストン美術館

大山道(現在の青山通り)が通る青山は、江戸時代は街外れであった事がわかります。道沿いに見える家屋は百人町と呼ばれ、江戸城本丸と大手三門を警備した鉄砲隊・百人組の組屋敷です。

大山街道は現在は渋谷、池尻、三軒茶屋と続くのですが、広重は後ろに富士山を控える雄大な丹沢山系大山の山裾に青山があるように描いています。

目黒

    東都目黒夕日ヶ岡 広重 国会図書館

夕焼の景色が素晴らしく夕日が岡と呼ばれていました。

夕日が岡から目黒川の流れと田園風景を見下ろし、楓の紅葉の向こうに富士を眺めています。 夕焼け空に紅葉がシルエットになって舞い落ち、目の前にしているかのように描いています。

 目黒太鼓橋夕日の岡  広重 国会図書館

目黒の太鼓橋は当時めずらしい石造りの橋です。

暗い空から雪が深々と降り続く太鼓橋の雪景色の絵です。目黒川の深い青色が流れが止まったかの様に見え、厳しい寒さが表されています。橋の上を歩く人々は、恐らく行人坂を下ってきた目黒不動の参拝帰りで、せっかくの雪景色も見ずにひたすら江戸に戻ろうとしています。

目黒川に架かる太鼓橋を渡り、急坂行人坂を登って行くと、右手に明王院、大圓寺と続き、 坂の上左手には茶屋がありました。

   目黒行人坂富士  広重・豊国  国会図書館

寛永(1624-1644)の頃出羽三山の一つ湯殿山の行者 大海法印が修行を始め評判となり道場を開き行人坂の名前の由来となりました。

道場の市は江戸城裏鬼門に位置するので徳川幕府の命により、大圓寺として創建されました。

行人坂の上には目黒不動として知られる天台宗のお寺泰叡山 瀧泉寺があります。三代将軍徳川家光は江戸の町を護るため、目白・目黒・目赤・目青・目黄の五不動を江戸の5ヶ所に安置しました。不動信仰は江戸中期以降に盛んになり、目黒不動は多くの参拝客で賑わいました。

赤坂

台地に挟まれた溜池一帯で潮入りの低湿地でした。慶長11年(1606)外様大名であった浅野幸長が願い出て、溜池を江戸城外堀の役割を果たすよう建造しました。

江戸時代初期から大名屋敷や幕臣の宅地などが混在し、これら武家地に挟まれる状態で町屋や寺町が形成されました。

    紀伊国坂 3代広重  国会図書館 

紀州藩上屋敷跡は赤坂御用地、迎賓館となっています。

 紀の国坂赤坂溜池遠景 広重 国会図書館

坂の東側にある堀は、弁慶堀と呼ばれる江戸城外堀の一つです。行列先頭の中間は口を「へ」の字に結び厳しい顔つきで、左手を握りながら踏ん張って歩き、先頭のお役目をは果しています。

    赤坂桐畑雨中夕けい 2代目広重   国会図書館

画面奥に描かれた赤坂御門へと向かう坂道には、迫る夕暮れと激しく打ちつける雨で暗く煙る中、傘を差して坂を往来する人々のシルエットが見えます。

前景のお供を連れたお武家、緑の上に植栽された桐と溜池は明るく、少し向こうの木々、坂、人々は濃いグレー色、さらに遠方の木々は薄いグーレー色で、激しく降る雨の景色を色による遠近法を使って描いています。

関東江戸風土記 リターン

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