妙遠寺
小杉陣屋招聘され妙泉寺を建立した日純上人は後に秀忠の命により川崎宿砂子に寺院を与えられ妙泉寺の本堂をこの地に引き移して、妙遠寺(みょうおんじ)を建立することになりました。家康が死去すると次太夫は出家し、1619年代官職を養子の吉勝に譲り妙遠寺に隠居し85歳で生涯を閉じました。
妙遠寺 小泉次太夫像
泉田二君功徳碑(せんでんにくんくどくひ)
川崎の発展に大きく貢献した小泉次大夫、田中休愚(たなかきゅうぐ)の二人の偉業を讃え、苗字から1字ずつをとって命名された石碑で、当時内閣総理大臣黒田清隆が揮毫しています。
田中休愚
田中休愚は幕府管理の六郷渡しを川崎宿が請け負う許可を得え、疲弊困窮していた川崎宿の繁栄をもたらした功績を中興の功労者として讃えられています。
休愚は吉宗の御前に召し出されて治水・農政の意見を述べ、川方御普請御用に任命されました。多摩川改修、二ヶ領用水改修等治水事業に多くの功績をあげました。
伊奈半左衛門忠順
宝永4年(1707年)11月23日に富士山の大噴火、宝永大噴火がありました。関東郡代伊奈家7代目の伊奈忠順(ただのぶ)は酒匂川の川浚い奉行を命じられました。
しかし最も被害があった駿東郡足柄・御厨(みくりや)に対して幕府の支援が一切行われず、忠順は田畑がつぶされた被災農民を雇い入れることで生活の安定を図りました。幕府は各藩に義援金(48万両)を拠出させたのですが大半は幕府の財政補填に流用されて工事は進みませんでした。忠信は被災農民を勘定奉行に直接直訴させたのですが、給金のアップは僅かでした。
幕府の救済が行われない被害地の人々を救うため、忠順は代官所の米蔵を自分の判断で開き1万5千石の米を支給して田畑を失い困窮していた村民を救いました。
その後忠順は幕府の蔵を開いた責任を取って切腹しました。しかし事情知っている役人は急死と幕府に報告したので、伊奈家は存続が許されました。(参考:怒る富士 新田次郎氏 著作)
その後田中休愚が任命され、土砂の浚渫、堤防による川筋の固定化工事が進捗し酒匂川流域は急速に復興しました。
伊奈忠順は不忘の人となり1867年小祠が建立され、その後須走に移転し伊奈神社が建立されました。

