1582年先祖より今川の家臣でしたが家康の武田攻略戦に参陣し、家康の家臣となりました。 1590年家康関東移封で武蔵国橘樹郡小杉村に知行地740石を賜り陣屋を構えました。
四ヶ領用水
多摩川両岸を視察しこの大河川の度々の氾濫により土地は荒れ、水田開発がすすんでいない事を痛感しています。六郷は乏しい水利状態で一村の家数7―10軒程度の寒村でした。代官職に抜擢され、多摩川からの農業用水路(四ヶ領用水)敷設を進言し、左岸は世田谷領と六郷領および右岸は稲毛領と川崎領に用水路を開鑿し新田開発する許可を得、小杉陣屋は右岸工事の事務所となりました。

1597年から1611年15年の歳月をかけ次太夫73歳の時完了する、難工事でした。小杉陣屋に安房国小湊の日蓮宗妙本寺から日純上人を招来し妙泉寺を建立して事業完遂を祈念しています。後に妙泉寺は妙遠寺として川崎の砂子に移転しています。
1601年には用水奉行兼役となり両岸の灌漑用水路の地域を掌握できる地位になり幕府直轄領だけでなく、大名・旗本領の人足を徴発出来る職権も付与され、農作業への影響を考慮して、長男は除き、次男・三男を中心に婦女子も使役しました。

第1期 1597年2月1日―1598年12月5日
測量と杭打ちで下流から上流に向かって六郷用水と二ヶ領用水の交互に進められました二ヶ領用水側は多摩川の旧流路を利用し、その測量に日数が要したと思われます。この頃日本は朝鮮にて慶長の役(1597-1598年)の最中、秀吉の死(1598年8月)があったのですが工事は進められました。
第2期 1599-1609年
毎年12月-1月4日の正月休みを除き、お盆も工事を休まず続けられました。当時は関ヶ原の戦い(1600年10月)があった大変緊迫した時期でしたが、工事は遅滞なく進んでいます。
第3期 1609年8月―1609年12月
この検地は用水本流から各村の田へ分流するための小堀開削の必要性から行われました。
第4期 1601年1月16日―1611年2月28日
本流から各村の田畑へ分水する小堀の開削が行われました。六郷用水は小堀開削工事が少なく小堀は既存の川等を利用したと思われます。
灌漑水田面積
四ヶ領地帯は水利事情が不便で、水田工作による農業生産基盤が脆弱でしたが、四ヶ領用水完成により米の収穫量が飛躍的に伸びました。
1709年二ヶ領用水に宿河原取水口が作られ、1717年には二ヶ領用水側の水田面積は2007町歩に増加しています。
六郷側
狛江は古くから多摩川の洪水に悩まされる一方で、農業用水として利用するといった恩恵も受けて共存してきました。この地は彦根藩井伊家、旗本石谷家が村を分割して所領する複雑な支配関係があり、狛江に取水口を設け用水路を開鑿するには家康の許可を得ていても気使いが必要がありました。 陣屋は設けずに諸村の名主15名を用水新堀案内役に任命し、案内役や宿所提供を命じて工事が始まりました。
常泉寺(後伊豆見神社)1550年 多摩川の洪水により流失し常泉寺は現在の場所に遷座しました。
水神社 1597年 寺跡に多摩川の洪水を鎮める水神社が祀られ、後に小泉次太夫の偉業を讃え用水守護、土木建築の神として合祀されました。


