7.1 伊奈忠次
1550年 三河・小島城主伊奈忠家の嫡男として生まれました。 1584年の小牧・長久手の戦の時、現在の磐田市に中泉陣屋を短期間で建築し家康は堂々とした堅固な出来栄えを賞賛しています。この陣屋は大阪夏の陣・冬の陣で作戦基地となりました。
陣屋裏門の移築門とされる中泉寺の山門 参照 中泉寺HP
五ヶ国領有時期
甲斐国の奉行を務め武田家滅亡後、治安不安な村々の検地を行い甲州知行書を発行し百姓集団を郷村社会として自立化させています。民衆の心のよりどころである寺社には領地安堵する朱印状を発行し、郷村の団結力を高めて領地支配を進めました。
釜無川の治水技術(甲州流)を視察し、山々に囲まれ氾濫の恐れがある河川の治水工法(伊奈流)のベースとなりました。
家康関東移封時期
1590年 関東郡代として武蔵国足立郡小室・鴻巣1万3千石の領主となり、北条の御馬廻衆であった閼伽井(あかい)坊屋敷(東北本線蓮田駅と高崎線上尾駅のほぼ中間の小室丸山)を接収し陣屋としました。閼伽井坊を倉田(桶川市)の明星院に立ち退かせて、明星院近辺の田畑を与え「この地が我らの領地である限り孫の代まで、相違なし」との証文を発し、平穏に郷村の統治を進めました。 ここを拠点として 治水・検地・新田開発・街道宿場駅整備等 家康の関東支配・江戸幕府の創設に大きく貢献しました。
利根川の東遷(1594-1645年)
江戸時代以前利根川は荒川と合わさって江戸湊に流れ込み度重なる洪水により武蔵国の東部一帯は大湿地地帯でした。家康の関東移封後伊奈忠次が河川奉行となり利根川の河筋を鹿島灘へと流れる現在の流路に付け替える工事が始まり、忠次・忠政・忠勝3代に渡る50年の大事業となりました。
利根川東遷は利根川と荒川を分離し、利根川の流路を江戸から離して固定化する事でした。
①1594年
利根川から分流している会の川を締切り利根川の流路を人工 的に変更
⓶1621年
新川通・赤堀川を開削し新利根川の流路を確保
③1624―1643年
逆川・江戸川を開削し新利根川から江戸への水路を確保
④1645年 赤堀川拡張
経済の活発化
利根川以南の流域は安定し、旧河道や遊水地を用水源や排水路として利用した水田開発が行われました。江戸への舟運が容易となり利根川東遷以前20ヶ所であった河岸が1688年 には80ヶ所、1770年には160カ所に増えました。
中川 江戸川・小名木川合流地点
中川口 広重 国会図書館
手前が隅田川と中川を結ぶ小名木川で、上方が行徳・塩浜への水路 右への川が中川で江戸川を経て関宿(せきやど)にて利根川につながっています。左下には中川舟番所の屋根が見えます。筏・釣船・行徳からの塩の荷船・客舟 様々な舟が描かれています。
奥川廻し(おくかわまわし)
奥州方面から江戸に向かう大型の荷船は鹿島灘の銚子で小型の船に荷を移し替えて利根川に入り関宿(野田市)から江戸川を下り、ここ中川を経由して小名木川を通って隅田川と運ばれました。
中川舟番所
流通統制・監視地点として箱根関所と同じく、「入り鉄砲と出女」を監視していました。この番所は3千石以上の旗本の役職であり、幕府この関所を重視していました。
荒川の西遷(1629)
関東平野は、熊谷あたりを最深部とする扇状地形で熊谷から江戸湾に流れ込む荒川は古利根川と合流し下流域では絶えず流路を変え、氾濫を繰り返していました。
古利根川と古荒川が合体して引き起こした河川氾濫を治める方法として古利根川も流路を変える「荒川の西遷」を利根川東遷工事中におこないました。そして新利根川から江戸への水路「江戸川」を開削し舟運ルートを確保した渾身の治水工事でした。
寛永6(1629)年 熊谷の久下で河道を締め切り、流路を入間川の支流につなぎました。
荒川は入間川水系と合流し 最下流の隅田川が江戸湊に流れた。 荒川に合流した隅田川は何度か洪水被害を引き起こし、明治44年から測量が始まりJR赤羽駅近く岩淵近辺を分岐点として荒川放水路(現在の荒川)が昭和5年完成しました。



