隅田川に架橋された橋
江戸時代、隅田川に架けられていた橋は、上流から千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永大橋の5橋で、架けられた年代順には千住大橋(1594年)、両国橋(1659年)、新大橋(1693年)永代橋(1698年)、吾妻橋(1774年)となります。
両国橋
東都 両国之風景 昇亭 北寿 ボストン美術館
明暦大火(1657年)の時、隅田川の橋が千住橋だけで避難できず 多くの死者を出したため1659年に架橋され、西側が武蔵国、東側が下総国なので両国橋と名付けられ、火除地としての役割も担いました。
右に見えるのは木材置き場の一部です。地方から切り出した木材は舟で運ばれここに保管され、ここから建設現場にまた舟を利用して運ばれます。長い木材は痛まないよう立てて保管しています。
明暦大火後、隅田川の向い岸側に本所上水が1659年に開削され、更に両国橋が架橋されると、市街地が拡大され本所・深川方面の発展に大きく寄与しました。
富嶽三十六景 御厩河岸より両国橋夕陽見 葛飾北斎 国会図書館
現在の台東区蔵前二丁目辺りの隅田川岸に幕府の御厩があったので、この辺りを御厩河岸(おんまやがし)といいました。
渡し船の手前に、美しい藍の線で大きな荒波が描かれています。対岸の両国橋のたもとに富士の姿が沈む夕陽の逆光でシルエットとして表現されています。、日が沈んで次第に色が失われていく時間が表現されています。
江戸自慢三十六景 両こく大花火 広重 国会図書館
空に上がった花火、両国橋、花火見物の舟、隅田川端の茶店を背景にしたおしゃれな着物姿の美人図。 花火の音や人々の喧噪からも浮かび上がり誠に優雅なお姿に魅了される光景です。
曳舟川
名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね 広重 国会図書館
明暦3年(1657)の大火の後、人が住めるよう本所(墨田区)と深川(江東区)の各地に上水を運ぶ本所上水を開削しました。 江戸初期深川は漁師町でしたが、両国橋が架橋(1659年)され、本所上水(1659年)が引かれたことで急速に発展しました。
上水が農業用に使われるようになると、舟の先に綱をつけて川岸から人が舟を引っぱる「曳舟」が行われ曳舟川と呼ばれるようになりました。曳舟の始点は四ツ木(葛飾区)にあったので「四ツ木通用水」とも呼ばれました。 現在は暗渠化されて、「曳舟川通り」として舗装道路となっています。
新大橋
名所江戸百景 大はしあたけの夕立 広重
急に降り出した夕立に相傘をしながらしのぐ3人組の男たちをはじめ、両岸へ急ぐ町人たちの様子が描かれています。橋の向こう側が「あたけ」(安宅)です。 天下普請の際、徳川水軍長であった向井正綱の子の忠勝(将監)に軍艦(あたけ)の建造を命じ、本所隅田川沿いの幕府船蔵に係留されていました。
永大橋
歌川広重 名所江戸百景 永代橋佃しま
永代橋は当時の隅田川にかかる江戸で最も長い橋でした。佃島の漁民は、毎年11月から3月までの寒い期間に、江戸時代大層好まれた白魚を獲り、幕府に納入していました。篝火(かがりび)がゆらゆらと燃え、水面にうつる風情ある光景は、江戸の風物詩のひとつとなっていました。

永代橋 渓斎英泉 国会図書館
5代将軍綱吉の誕生50歳の記念事業として関東郡代伊奈忠順(ただのぶ)が命じられ架橋されました。架橋には上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされています。
関東郡代伊奈家7代の忠順は、宝永4年(1707)11月に620年ぶりに発生した富士山の大噴火で砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、火山灰が堆積した酒匂川の砂除け、堤防修復などの復旧事業に携わりました。しかし最も被害があった駿東郡足柄・御厨(みくりや)に対して幕府の支援が一切行われず、忠順は酒匂川の改修工事に被害農民を雇い入れることで生活の安定を図り、農地を回復させるための土壌改良にも取り組みました。しかし忠順は復興開始から4年後、事業半ばで死去しました。
忠順の救済により救われた農民たちは、その遺徳を偲び須走村(現在の静岡県駿東郡小山町須走)に伊奈神社を建立し忠順の菩提を弔いました。






