日比谷入江を埋め立て江戸前島と連なる町を整備する際に京都へと連絡する新たな東海道と、奥州や常陸方面と連絡する街道が1603年架橋された日本橋で接続し、日本橋が五街道の起点となりました。
日本橋近辺は隅田川と江戸城内堀が水路で通じる水陸交通の要衝で経済・物流の拠点となりました。日本橋は中央が高いアーチ型で、富士山・江戸城天守閣を望め見晴らしが良い観光スポットでもあり、大勢の人で賑わいました。

日本橋真景并ニ魚市全図 広重東都名所 広重
江戸の豊かさと繁栄の象徴が全て描き込まれています。 日本橋・お城まで続く蔵・運搬舟・大勢の人々・大店・魚河岸

日本橋 昇亭 北寿 ボストン美術館
右岸日本橋周辺は江戸の下町の中心で大店や蔵が軒をつらね、各地からの人々で賑わいました。日本橋たもとに見える蔵は家康に命じられ開店した近江商人西川の江戸店「山形屋」の蔵です。
右岸の魚河岸は江戸市中の魚取引の中心として発展し幕府に魚を納める役割を果たしました。その後魚取引は関東大震災をきっかけに築地へ移転しました。
中央に見える複数の漕ぎ手がいる舟は押送舟(おしおくりぶね)と呼ばれる鮮魚輸送専用の高速運搬舟です。

東都名所 日本橋雪中 広重 国会図書館
雪がしんしんと降り橋を渡っている人の傘に雪が積もり、真っ白な富士山が姿を遠くに見せています。日本橋川の水面の色は、近くが藍色、遠くは薄水色で遠近感を感じさせます。雪の日の普段にはない静かな日本橋の情景です。
日本橋エリア
幕府に取って、財政、司法、外交、時刻等管理する重要な地域でした。
金座
小判の製造所で幕府の中央銀行で現在の日本銀行もこの場所にあります。本両替町には現在の銀行に相当する両替店が建ちならんでいました。
時の鐘
時刻を知らせる時の鐘がありました。江戸時代、和時計を持っているのは豪商や大名等だけで、庶民はお寺で打つ鐘の音で時刻を知りました。当時の時刻は、一日を夜明けと日暮れを基準にして昼と夜に分けてそれぞれ6等分し、その長さを一刻(いっとき)と呼んでいました。 一日のうちでも昼と夜の一刻の長さは異なり、しかも季節によっても変わるのです。 時刻を管理する本石町の「時の鐘」で刻まれた時は赤坂・本所・上野・芝・目黒・市ヶ谷・浅草・四谷と中継され当時なりに正確に時を知らせるシステムでした。
時の鐘は、川越、八王子等にも作られていました。
長崎屋
長崎の出島に居住していたオランダ東インド会社の商館長(カピタン)一行の宿所で将軍謁見が義務づけられていました。
北町奉行所
日比谷入江埋め立てで築造された大名小路の日本橋川に面する位置には江戸の治安を守る北町奉行所が置かれていました。日本橋の南に位置する場所は奉行配下の与力や同心が居住する組屋敷がありました。南町奉行所は同じ区画の現在の有楽町駅付近にありました。北町奉行所と南町奉行所は奉行所の場所を表しており、月番交代で務め、非番の月は訴状内容を調査していました。
越後屋 1672年
松阪の高利貸で酒屋の息子であった三井高利が52歳の時日本橋駿河町に越後屋開店しました。今までに無い商法で大成功を収めました。現在の日本橋三越がこの場所に立っています。
東都名所 駿河町 広重 国会図書館
- 現銀(現金)掛け値なし それまで呉服販売は得意先の大商人や大名屋敷に見本を持って訪問販売し、支払いは盆・暮の年2回でしたが越後屋は現金販売で値段を安くして、お客をふやしました。
- 小さな布も販売 それまで着物1着分の布が販売単位でしたが、前掛けや小さな着物も切り売りする職人や町人等庶民をお客に増やしました。
- 専門店員
婦人物、和服など専門店員がいました。
- 宣伝 越後屋と書かれた傘の無料貸しや越後屋の看板が入った浮世絵に描いて宣伝を行いました。
駿河町 越後屋(部分)
- 両替商
大阪、京都など支店を開店すると、幕府から両替商の許可を得、高額な両替手数料を支払う必要のない自前の両替決済網を大阪、江戸に構築しました。 自前の決済網を持っていない店からの両替手形を発行し手数料を得ていました。
当時幕府御用金の大阪・江戸間輸送は隊列を組み千両箱を御伝馬の背にした現金輸送でしたが越後屋の両替決済網に切り替え明治まで続きました。 江戸時代は金銀の両本位制で 西日本は銀本位制、東日本は金本位制でした。両替商は両位制の金銀交換比率で手数料を得ていましたが、幕府支払猶予期間(150日)があり高利子でこの間に又貸出来る利幅の大きい取引だったのです。
西川
近江(滋賀県)は琵琶湖があり水資源が豊富で大量の清水を使う繊維業が発達していました。西川は1566年蚊帳や日用品の販売業を開店し、1578年に現在の近江八幡に本店「山形屋」を開設しました。1615年に家康に命じられ架橋前の日本橋脇の一等地に支店を開設しました。錦絵にも描かれている萌黄色に染めて絵柄をデザインした「近江蚊帳」がヒットし、幕府から蚊帳問屋に指名されました。現在も日本橋西川店は同じ場所に店を構えています。

近江八幡市 旧西川家(西川甚五郎)邸宅
近江八幡八幡堀の写真です。前方橋の左に見えるのが西川甚五郎の蔵で、蔵から直接舟堀への石段を使って商品を積み込み、琵琶湖に出で大阪・京に運びました。近江八幡も江戸も荷の運搬は 水路を利用した舟であった事がわかります。


