家康の関東入府後50年を経て参勤交代制も定着して人口が増加し飲料水が不足となりました。玉川(多摩川)より取水する玉川上水が 1653-1654年、2年の短期間で後に玉川姓を賜る庄右衛門・清右衛門兄弟によって開渠されました。

羽村から四谷までの標高差が92メートルしかなく高度な土木工事が必要でした。当初は日野から取水しようとしたのですが低地のため流水せず、次は福生に変更した所「水喰土」(みずくらいど:浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい失敗です。設計技師の助言により羽村に取水地を変更して3度目の正直ようやく工事が進行しました。
しかし当初請負費用6000両は高井戸辺りで不足し屋敷・田畑を売却し3000両を調達して8ヶ月後、羽村から四谷大木戸間92Kmの上水路が開通し、1654年6月から赤坂、麻布、芝に通水されました。玉川用水は水量が豊富であったので、野火止用水、青山用水、千川用水、芝用水に分流し江戸の町に給水されました。
名所江戸百景 玉川堤の花 広重 国会図書館
現在の新宿御苑正門あたりを描いたものと考えられています。御用木と無断で書いてしまったため幕府から咲く前に撤去を申し付けられ、この絵のような景色となることはありませんでした。この絵は広重の想像絵なのです。
江戸の上水道マップ

武蔵野新田開発
武蔵野と呼ばれる多摩郡特に北多摩は水場のない荒れ地で武蔵野台地の崖下は湧水があり村もありましたが、台地の上は富士山等火山灰が厚く、井戸からも水を得られないため人は住めなかったのです。
玉川用水が引かれると武蔵野の新田開発が行われました。火山灰の台地は土地がやせており畑作が中心で、練馬大根・小松菜・谷中ショウガ等特産品を江戸の住民に売り歩き下肥を汲んで帰る、優れたリサイクルシステムが出来あがりました。
野火止用水
立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る1655年に開削された全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。
川越藩主松平伊豆守信綱により、武蔵野開発の一環として、川越野火止台地開発のために入植した人々の飲料水・生活水確保を目的に開削された用水路で、現在の小平市小川を流れる玉川上水から掘り起こされ、野火止台地を経て全長24kmに及びます。後に田畑用水としても利用されるようになりました。
この野火止用水開削に前後して、川越藩では野火止の耕地を短冊形に区画して新しい村を作り、農民を入植させ松平家の一門や家臣まで開発に参加させるという計画的な新田開発を行いました。
野火止用水が玉川用水から分流する地点は現在の小平市小川橋で、江戸時代に畑地が開拓されました。
中央を青梅街道が通り、南北二つの用水との間を細い線で区切られた区画が開拓農民の一人一人の土地です。街道に近い所に家屋敷があり畑は用水路から取水出来ました。現在もこの地形がそのまま残っています。


