家康が関ヶ原の戦い(1600年10月21日)に勝利し、征夷代将軍に任命(1603年2月12日)されました。江戸が開府されこれより260年余続く江戸時代が始まります。
天下人となった家康は諸大名に江戸城と城下町の拡張工事、いわゆる天下普請を命じました。この時期幕府は領地安堵の朱印状をほとんど発給しておらず、自己の領土が保障されていない西国大名は賦役を自ら願い出て忠誠を披歴せざるを得なかったのです。
5.1 日比谷入江埋め立て
開府の翌月3月に日比谷入江に流れていた平川の流れを変え、神田山を切り崩しその土で日比谷入り江を埋め立てて前島と陸続きになり現在の日本橋から新橋辺りまでの町が造成されました。
埋められた土地は内堀に位置し大名屋敷、奉行所、勘定所等が立ち並ぶ幕府の最重要エリアとなりました。日比谷入江から 始まった江戸の埋め立て事業は家康没後も続き築地・深川等新たな土地が造成されました。
佃島
家康は本能寺変の折家康を助けた摂津国佃村の漁師達を開府後に江戸へ呼び寄せ江戸湊の漁業権を与えました。漁師達は石川島付近の干潟を行い0年以上の歳月をかけて寛永21年(1644)佃島が完成しました。
佃嶋初郭公 広重 国会図書館
暮れなずむ佃の空に月が昇り川面を白く照らす月に郭公(かっこう)が組み合わさり、林立する帆柱の間に一声聞こえてきそうな絵です。
築地
築地本願寺 広重 国会図書館
築地は地を築くの意味で命名されました。
東の海上から眺めた本願寺で、浅草にあったのですが明暦の大火で消失しされました。跡地での再建は許可されず八丁堀沖を埋め立てて築地に1679年再建されました。これを機会に他の寺院も築地に移転しました。
深川
江戸の人口が増加してゴミ処理場が必要となり、摂津国から移住してきた深川八郎右衛門により隅田川と行徳を結ぶ小名木川と新川の南側を 埋め立て深川村としました。
深川十万坪 広重 国会図書館
向こうに見えるのは筑波山で深川の広さをみせています。
鷹が洲崎の浜で獲物を見つけ真直ぐに見つめ爪を立てて急降下の体勢でまさに襲いかからんとしています。広重は、人が入らない広く広がる洲崎の「静」と洲崎に生きる鷹のダイナミックな「動」を見事 に対比させて描きました。
深川木場 広重 国会図書館
木場は元禄14(1701)年、15名の材木問屋に払い下げられた土地で、貯木場があったことが名前の由来です。材木問屋らは四方に土手を築き、堀をめぐらすなどの整備を行い、江戸の材木市場として栄えました。
江戸城築城
西国諸国の大名が伊豆国から石を切り出して、石垣の築造を行い1604年には本丸が落成し将軍の秀忠が入りました。1607年になると東国諸国の大名により外堀(神田、赤坂溜池)が築造され、石垣をさらに積み上げその上に五層の天守が建造されて、江戸城の天守は連立型天守となりました。
江戸城の防備
江戸城の防備は2段構でした。江戸城は内郭と外郭に分かれて城に入るには橋を渡り城門をくぐる必要がありました。城門の数は36以上ありました。内堀や外堀にかけられた城門を見附といい、江戸城を囲うように赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附、小石川見附等、人や物資が行き交う要所であったので大名や旗本の番士が交代で昼夜詰めていました。 見附の内側には江戸城の城門、桜田門、日比谷門、和田倉門、常盤橋等が設けられました。
徳川御三家の上屋敷
元々は江戸城内にあったのですが、明暦の大火後区画整理で城外に移されました。御三家の藩邸は江戸城を囲むように外堀通りの外側に、尾張藩は市ヶ谷、紀州藩は麹町、水戸藩は小石川とバランスよく配置され江戸城西の守りの拠点にもなりました。




