4.5 農村支配と江戸町人の暮 らし

農村支配

小田原征伐で合戦に巻き込まれる事を恐れた農民が農地を捨て離散し農村は荒廃していました。離散した農民を呼び戻し再び耕作させるため年貢の減免をおこないました。一歩間違えると一揆が勃発する恐れがあり北条氏の遺臣を出来るだけ取り立てる事で一揆勃発の危険性を少しでも減じて、家康の支配は成功しました。 北条氏旧臣や領民に配慮しながら、検地を行い家康の直轄地である蔵入地(くらいりち)は約120万石にも達し、総石高の半分が直轄地に組み込まれました。これにより家康の財政基盤すなわち権力基盤が著しく強化されました。

江戸町人の暮らし

道三堀の両岸には最初の町家が建てられました。開鑿時に出た土を埋め立てに利用し、町人町が作られました。江戸の町人地の基本的な区画は通りを挟んで向かい合う家屋で構成されています。表通りに面して店舗が建ち並びその奥に長屋がありました。店舗は2階建てで1階が店舗2階が住居でした。一般の庶民は裏長屋に住んでいました。

長屋1軒の大きさは玄関台所含めて約3坪程度、壁は薄くプライバシーはほとんど無い厳しい住宅状況でした。 

上水道からの水が井戸に貯えられ、住民は毎朝ここにやってきて自宅で使用する水を汲みあげていました。 水はふんだんには使われず、米のとぎ汁はふき掃除に使いその残りは植木に撒く等再利用が行われていました。下水は生活排水や雨水で、それほど汚れてはおらず、石組された下水道に流され河川に注がれました。屋根の雨水は竹雨樋から下水に流されていました。雪隠は男女兼用で扉は下半分程度でした。庶民は自家風呂を持っておらず銭湯を利用し、銭湯は交流の場にもなっていました。

長屋の住宅環境は我慢も強いられますが地方から出稼ぎにきた農民には安心して暮らせ 住民同士の交流は濃いものにならざるを得ず、一種の共同体意識が生まれました。長屋は「終の棲家」ではなく共同体意識も一時的であったと思います。しかし濃厚な農村の共同体意識とは異なる今までには無い閉塞されない都会的な感覚が育まれて、庶民の文化が作り上げられたと思います。

関東江戸風土記 リターン

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