千住大橋
関東代官頭の伊奈忠次が河川奉行となり、1594年11月に架けた橋長66間(120m) 幅4間(7m)の隅田川最初の橋です。 当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり古い街道筋が通る場所と推測され、架橋後 佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋がこの橋に移リました。北岸に「千住宿」が開かれ陸路での往来に加え、荒川水運の物資も集積し、宿場町は大いににぎわい、後に橋の南側まで拡大していきました。
深い位置にある強固な地盤まで打ち込み杭と周囲の地盤との摩擦によって橋を支える橋杭材は伊達政宗が水に強く朽ちにくい高野槇(コウヤマキ)を寄進しています。橋の架かえはありましたが明治18年(1885年)の洪水によって流されるまで橋は一度も流されることなく、橋杭材は使われ続けたと言われてます。
大変な難工事だったようで、忠次は橋近くの熊野権現に成就を祈願し橋が完成すると、橋の余材で社を修理・修復したとされています。これ以来千住橋の工事伴い、熊野権現も補修する習わしとなりました。
名所江戸百景 千住橋 広重 国会図書館
旅人や駕籠(かご)、荷を積んだ馬などが行き交い、宿場町の活気が伝わってきます。ゆったりとした流れが続く隅田川には、大きな帆を張った荷船や筏(いかだ)が浮かび、橋付近に舟が抑留され、対岸には材木が積み上げられています。
熊野権現
千住宿
千住宿は千住大橋が架橋されると奥州街道・日光街道の駅馬を継ぐ宿として 指定され発展しました。上野方面からくる日光街道と浅草方面からくる奥州街道を合わせ、宿の中で水戸街道が分かれ橋を渡ると日光街道と奥州街道に分かれる街道の集散地となっているのが千住宿の特徴です。水路と陸路が交わる交通と物流の要衝地となり、多くの人と物が集まるようになり、商業が発展しました。
千住大橋 昇亭 北寿 ボストン美術館
画面中央より低いなだらかな橋が架かり、大きくカーブする隅田川の向こうに水平線が見え、淡い色の空が絵の半分以上占める独特の構図です。
富嶽三十六景 従千住花街眺望之不二 前北斎為一 国会図書館
千住宿を大名行列の鉄砲隊後ろに槍隊が通過中です。遠くに花街の建物と富士山がみえます。絵の中央に農家の女性二人が稲刈りの終わった田圃の畦道に座りながら行列を眺めています。先頭の武士も気になって二人の方を見ながら道中の励みとなっています。
六郷橋
長さ107間 (194.5m)、幅4間1尺7寸 (約8m)、高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)の六郷橋が慶長5年(1600年)に架橋されました。 関が原の戦い(10月21日)で家康率いる東軍が六郷大橋を渡橋したとおもわれます。洪水により橋は流され何度か再架されたましが、貞享5年(1688年)の洪水以後、橋は 再架されず 六郷の渡しが設けられました。
木の下に見えるのは川合所(料金所)で渡し賃を払って舟に乗ります。商人が煙草を吸いくつろいでいますが、 船頭は腰に力を入れて漕ぎ出しています。
鎌倉時代に川は敵を防ぐ防衛ラインであり、その役割は江戸時代になってもかわりませんでした。渡船場は、幕府の「道中奉行」が管轄し、渡河の方法や渡賃を規定しました。幕府が定めた場所に定船場(じょうふなば)が決められ、それ以外の場所での渡河は厳しく制限されていました。





