城下町に暮す人々は身分に応じて役割が与えられていました。
- 有力な武家や旗本を集住させ、強力な軍事力を組織化し、司法や行政の担い手とさせる。
- 人心安定のための神社・寺院に農業地を与え、宗教勢力の要としての役割を担わせ、公権力の権威化に寄与させる。
- 商人・職人等には免税や営業特権の付与等の優遇策によって城下町に招致し、手工業生産・金融・商業・流通等の側面においてセンター機能を果たさせる。
身分に応じて住む場所が定められた江戸城下町は、およそ3期に分けて大規模な水利・土木事業により建設されました。
第1期 関東移封期 1590-1594
大名徳川氏の城下町として建設 秀吉の伏見城建城のため中断して います。
第2期 征夷代将軍任命期 1603-1607
諸大名に助力させた天下普請の首都造りが始まりました。大阪城 を拠点として依然 強大な勢力を持っていた豊臣家の存在があり状況は複雑でした。豊臣恩顧の西国大名を牽制する拠点として丹波亀山城・篠山城、諸大名への抑止と東海道の防備を固める名古屋城、北陸・東海の交通の要衝地である彦根城、京への睨みを利かす膳所城を天下普請で築城しました。
第3期 江戸城外郭拡張
大阪の陣で豊臣家が滅亡すると秀忠・家光による大名を動員した江戸の大都市化を行いました。経済の中心であった大阪を徳川支配の象徴として、秀吉が築いた大阪城の実質的な新築城に相当する造り変え、京都御所や公家町を守護し徳川の将軍が上洛時の宿泊所としての二条城等政治拠点の充実を図りました。
4.1 第1期建設 1602年頃(慶長7年)
行政・土木工事を得意とする地方巧者の家臣 伊奈忠次(元今川家臣)、大久保長安(元武田家臣)、小泉次太夫(元今川家臣)等が江戸と関東のインフラ整備を開始しました。
インフラ整備
- 上水道整備 神田上水
- 物資搬入ルート 道三堀 小名木川
- 架橋 千住橋 六郷橋
上水道
1590年関東移封の前に家康は家臣の大久保藤五郎に上水道の見立てを命じています。 藤五郎は家康の小姓を務めていましたが三河一向一揆で家康を守ろうとして受けた銃弾の傷がもとで、歩行が不自由となり菓子作りの職人になった人物です。
当時江戸の南西部では井戸に海水が入り、北東部は台地で飲み水を得られる場所は限られていました。藤五郎が探し当てたのは小石川の湧水を水源とする神田山脇の細流と溜池でした。その水を巡らせる用水事業を短期間でやり終えました。 1606年頃には様大名の浅野幸長(よしなが)が願い出て溜池を外堀の一環とすると共に飲料の上水ダムとして作り、北東地域に巡らせる上水道が出来ました。
溜池
溜池は慶長11年(1606)頃外様大名の浅野幸長(よしなが)が家康に願い出て、江戸城防備の外堀の一環とするとともに、当初水質が良く飲料用の上水ダムとして作りました。瓢箪形の溜池の面積は不忍池より広くて風光も美しく、当初は水質が良く上水として使用されました。
広重 赤坂桐畑 国会図書館
西岸から溜池を望む桐は、溜池の補強のために成長が早い木として植 られました。溜池は風景も美しく、周囲には民家も立ち並び始め蓮を植えて鑑賞し蓮根を採取したと伝えられています。
牛ヶ淵

飯田町九段坂之図 広重 国会図書館
「淵」とは、深く水をたたえた場所のことで牛ヶ淵は麹町から続く台地の際にあり、この付近の湧水をせき止めてた飲料水用のダムを造りました。正面に見えるのは田安門の土手で 現代のダム機能を持っています。
葵ヶ岡
外濠としても役割があった溜池の水を飲料水として確保するための上水ダムで現在の港区虎ノ門あたりに浅野幸長が建設しました。
北斎 東都葵ヶ岡の瀧 国会図書館
溜池の堰から流れ出した水が滝となり、その水音から「どんどん」と呼ばれ親しまれていました。現在は埋め立てによりその姿を見ることができませんが江戸時代には名所として知られていました。
神田上水
江戸の人口が増えると小石川の上水では不足し、井之頭池を起点とする神田上水が引かれました。神田上水は途中数本の川と合流し目白の関口大洗堰に至り、ここから給水されました。給水順位は武家地が優先され残水が町人地に給水されました。
せき口上水端はせを庵椿やま 広重 国会図書館
この絵で関口大洗堰は上水の直ぐ下流にあります。右手の山は椿山(現在椿山荘)で、見えている建物は松尾芭蕉案(はせを庵)です。芭蕉は37歳の頃江戸に出てきて日本橋の魚問屋に居候し、俳諧宗匠になる以前は神田上水の改修工事 (1673~)に従事していました。後に門人たちが芭蕉庵を建てました。
東京名所四十八景 関口目しろ不動 昇斎一景 文京ふるさと歴史館
神田上水は関口大洗堰で神田川に分流し、水戸藩江戸屋敷(後楽園)から水道橋を渡り、お茶の水を経由し神田方面に給水されていました。
小石川後楽園には神田上水跡が残っています。
井の頭
徳川家光が鷹狩りに訪れ、「井(水道)の頭」と命名したと言われています。
井の頭 広重 国会図書館
井の頭池と付近一帯の林は幕府の御用林でした。左下は水の神様である弁財天が祀られている社で神田上水は池の奥が起点となってます。
遠くの方へと飛ぶ小さな水鳥が遠近感を表し、池の中の細長く連なる草は繊細に描かれています。濃いブルーと淡い水色の池の色は広重が得意とする描写です。遠くに見えるのは秩父の山並で途中は 全て黄色で省略された広大な武蔵野がひろがっています。
お茶の水
この地にあった高林寺の井戸水が良質で将軍家に献上されたことが地名の由来となりました。神田川(外堀)沿いに大樹が鬱蒼と茂り茗渓(めいけい)とも呼ばれる景勝地でした。神田上水を渡す懸樋が万治年間(1658-1661)に架橋され江戸名所の一つとなりました。お茶の水の懸樋の西に架かる橋が水道橋です。
御茶ノ水 広重 国会図書館
名所なので、皆さんおしゃれした姿で楽しんでおられます。広重は絵の中央に歩みを止めた男性と、男性を見つめる女性を描きました。このまますれ違うのか、何かが進展するのか? この絵を見た人はお茶の水に行こうと思い人が集まる事になります。

お茶の水 広重 国会図書館
御茶ノ水は人工の渓谷
飯田橋付近から秋葉原付近までの神田川は、仙台濠とも呼ばれ仙台伊達藩による大規模な土木工事で造り出された人工の渓谷です。神田山(現在の本郷台地)を分断し平川、小石川、石神井川3つの河川をまとめて接続して神田川から隅田川へ放水する大規模な河川の付け替え工事が行われました。
神田山の先端はならされ徳川直参の駿府家臣が住んだので駿河台と呼ばれました。
名所江戸百景 水道橋駿河台 広重 国会図書館
本郷台地から神田川に架かる水道橋越しに駿河台の町を見下ろしています。武家屋敷の方は武家習わしの吹き流しや幟旗が見え、鯉のぼりは町人の文化でした。
名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川 広重 国会図書館
広重が描いたお茶の水渓谷です。 昌平橋から対岸の昌平坂を望み、坂の後方に茂る森の中には、湯島聖堂や幕府の学問所・昌平黌(しょうへいこう)がありました。湯島堂は中国春秋時代の儒教創始者である孔子を祀った廟で、地名「昌平」も孔子の故郷・魯の昌平に由来しています。










