1590年7月13日 家康49歳
家康は北条が降伏する前から秀吉が北条の支配地を徳川に託すると察していました。家臣にも元の領地には戻れない事を伝え、あらかじめ覚悟させていたと思われます。五カ国統治時代は8年間余りで終り、家康の移封を転機に関東は中世から近世へと時代が移りました。

秀吉の思惑
徳川家康の関東移封は、家康を畿内から遠ざけ豊臣政権の権勢が行き届かぬ東北大名の抑えとする秀吉の天下統一事業を推進する政治政策として考えられます。
秀吉はこれまでも有力大名の配置転換を実施してきました。故信長の小姓で信長の娘冬姫を娶った信長の寵臣 蒲生氏郷(がまごううじさと)は秀吉の九州平定でも活躍した実力派です。推測ではありますが信長の影響力を畿内から遠ざけ、秀吉に明白には従わない奥州の伊達政宗を監視させる役目を与え松阪18万石から会津42万石へ移封されました。結局氏郷は伊達政宗と度々対立しながら病死しています。
小牧・長久手の戦で家康に最後まで戦の継続を家康に主張した佐々成政は越中から肥後 熊本城に移封され検地に失敗して一揆が勃発しこれを治められず切腹しています。 移封はコストが伴い財政を圧迫させる常套手段なのです。
関東は北条政権下で地租が安価で、検地により石高を増やすと不満がたまり残存する旧北条勢力による反乱が勃発する恐れがあるリスクもあり、家康の政治力・経済力を削ぐ秀吉の思惑も否定できません。
家康の決意 江戸を政治・経済の中心とする関東統治
従来の考えであれば、統治拠点は占領した北条の小田原、もしくは源氏の鎌倉とするのが無難と思いますが、江戸を決断したのは先を見通した家康の慧眼かと思います。
関東の地勢は日本最大の関東平野を有し、平野の外縁の山岳と利根川が天然の防壁となっています。 江戸湊は舟運による流通が既に行われていました。ウォータフロントは経済活動の中心で、秀吉の大阪城は大阪湾を、信長の清州城は伊勢湾の津島に隣接していまし、近世の城下町はウォータフロントをベースに政治と経済をセットにしていました。
しかしながら当時の江戸の地形は、西・北側(山の手)は火山灰堆積による台地で起伏が激しく、東側(下町)は荒川と当時は江戸湊(東京湾)に流れ込んでいた利根川下流の低湿地帯で、太田道灌の築いた江戸城近くは日比谷入江が深く入り込み、城下町として十分な土地が不足していました。
3.1 太田道灌の江戸統治
時代は少し遡り関東は享徳の乱(きょうとくのらん:1455ー1483)と呼ぶ戦国時代でした。関東管領を代々務める上杉氏に不満を持つ関東周辺の領主の支持を集め「古河公方」と名乗る足利茂氏と断続的に戦が続いていました。 下総古河城を拠点とする足利茂氏側であった下総の武将千葉氏への備えとして太田道灌は江戸を選びました。当時江戸の西部と北部は台地で生活水が乏しくて人家が無く、台地の淵に農家が少し、江戸湊の漁村がある土地で、背面は広大な大地で葦やススキの生い茂る原野でした。

道灌は平川を江戸湊に流れる物流の動脈として高橋に諸国と交易する市を開き、武蔵要衝の地江戸を川港都市として発展させ、戦上手な城作りの名手であったばかりでなく、経営感覚のある統治者でした。しかし道灌の主家である上杉定正は1486年8月5日 道灌を相模糟屋館(伊勢原市)に招いて暗殺してしまいました。
16世紀になると上杉から自立を目指した道灌の孫 江戸太田資高(すえたか)は北条氏綱(うじつな)と結び,その結果北条氐は武蔵を手中に収める事に成功し 江戸太田氐は北条氏の勢力下に入りました。 その後上野・武蔵・下総・上総・相模を支配した北条も江戸城を重要な防衛拠点として、相模国国府と江戸城を結ぶ中原街道を築いています。
3.2 関東支配基本政策
家康はこれまでにはない集権的に領地を支配する政策を行いましました。
- 五ヶ国統治時代は国別支配でしたが、江戸を中心とする関東の一円的 な支配体制の実現
- 直轄地(百万石)を設定し、軍事と民政の強力な基盤の拡充
- 軍事の武功派家臣と共に、民政中心の史僚派家臣の登用による地域開発
3.3 知行割(家臣配置)
知行割は権力の空白化をさけるため領地支配の最優先事項で、移封後直ちに家臣が配置されました。有力大名に通じる街道沿いの要衝には重臣を、江戸周辺には旗本・譜代の家臣を配置しています。
井伊直正の配置 高崎
先祖代々遠江の国 井伊谷の領主の家柄で父 井伊直親は今川に仕えていましたが直正2歳の時父が誅殺され母方の親類にかくまわれて育てられ、家康に見だされて小姓として仕えました。家康の関東移封とともに箕輪城主となっていた井伊直政は1597年家康の命により、中山道と三国街道の分岐点で交通の要衝であった高崎の和田城跡地に近世城郭を築きました。
榊原康正の配置 館林
上杉、武田、北条の3家でこの地を巡って争い、上杉(長尾景虎) が関東管領として要衝の地 館林を支配していました。
家康が関東に移封にて徳川四天王の一人「榊原康政」は館林に入り、10万石の知行地を与えられて館林城の拡張整備と城下町全体を堀と土塁で囲む「総構え」の構造に改造しました。
城下町の中を通る日光脇往還道 を敷設しました。日光脇往還道は中仙道の鴻巣宿(埼玉県巣鴨市)から北上し、館林を北に抜けると栃木県佐野で日光例幣使街道に合流する幹線街道でした。この街道により人の往来が盛んになり館林は発展しました。




