秀吉にはっきりとは臣従しない北条に対して、北条討伐令を出したのは1589年11月でした。朝廷が承認した北条氏への弾劾状が出回り、北条討伐は正義の戦いとなりました。秀吉が構築した中央集権的な体制下では味方でなければ敵とみなされ中立は許されないのです。
家康出陣
先陣を務めた家康は1590年2月10日に駿府を発し、箱根越えの手前小田原から直線距離で10Km程に位置する長久保城に着陣しました。家康の家臣 伊奈忠次は秀吉軍の領内駐留・通過の便宜を図るべく、城の整備、舟橋の架橋、茶屋の設置を行い、さらに兵糧も供出しました。
秀吉は小田原征伐の直前に、北条支配下の郷村の有力者に対して、秀吉の軍勢が百姓や民に対して火付けや乱暴を禁止する禁制(きんぜい)を発布する宣撫活動を行い、北条征伐後秀吉の支配下になる領民の心を安定させています。

柿生郷土資料館 秀吉の禁制
天正18年4月 室町時代中期に麻生に土着し、蔵国樹郡麻生郷の在地土豪的な小島氏に出され禁制。他にも稲毛郡作延郷・長尾村(井田家)・平土橋村宛に出されています。
小田原開城 1590年7月5日
各地にある北条の多くの支城や武蔵国の西に位置する軍事拠点八王子城が6月23日に陥落しました。小田原城は十重二十重に取り囲まれ、もはやこれまで。前当主の北条氏政が城を出て秀吉の陣営に出向き降伏の意を示しました。切腹を命じられたのは北条氏政、一家衆筆頭の北条氏照、宿老 松田憲秀と大道寺政繁は切腹、家康の娘婿である氏直と、かって上洛し秀吉にお面通りを得た韮山城城主で先に降伏した氏規は助命されて追放され、ここに北条家は全ての支配力を失いました。