1.五ヶ国統治時代

「五ヶ国」とは「三河、信濃  、遠江、甲斐、 駿河」で、「五ヶ国統治」は後に家康が関東を支配した領民統治政策の基礎となりました。

1.1 五ヶ国統治時代への道程

 戦国時代の真最中、1542年12月26日に家康(竹千代)は三河に生まれました。父の松平広忠が三河国を支配していましたが、東の今川義元、西の織田信秀に挟まれ、三河領土はどちらに占領されてもおかしくない状況にありました。 今川に人質として送られてきた8歳の竹千代を今川家当主 今川義元は岡崎城城主松平家長男として尊重しました。  16歳で義元の姪 瀬名姫(後の築地殿)を娶り長男信康を授かり、今川家の家臣として初陣を飾っています。五ヶ国統治時代へのプロセスは波乱万丈、戦国時代を生き抜く武将としての経験を積むことが出来た時代でした。

桶狭間の戦い 1560年6月12日

 尾張に侵攻した今川義元と尾張の織田信長の合戦で信長が義元の本陣を奇襲し義元を討ち取りました。この時家康は「松平元康」と名乗っており織田信長と戦う姿勢でしたが、義元の後を継いだ氏真(うじさね)は東海進出を狙う武田から攻められ、相次ぐ離反を抑えきれず家中は乱れました。松平元康は今川からの独立を決断し「松平家康」と改名し1562年正月信長と清州同盟を締結しこれが戦国時代の転機となりました。

三河一向一揆  1563ー1564年  

 当時 延暦寺、興福寺、本願寺は荘園や領地を維持するため武力を備え、守護に匹敵する力量を有する大寺院でした。 三河を含む東海地域は、畿内・北陸と並び浄土真宗(本願寺)の強い地域で今川時代も特権保障による寺中心の地域社会の秩序が形成されていました。

 家康が三河領地化を進めるうえで寺の特権を認めようとせず、一向一揆が勃発しました。蓮如により阿弥陀如来を信ずれば極楽往生出来ると教えられた本願寺門徒が三河一向一揆の核となり、松平一族の門徒武士が家康に離反し、親今川勢力も反家康に連携する三河が分裂した騒動に広がってしまいました。 寺院に立てこもった一向衆と膠着状態となったのですが、信長の援軍を得て一向衆は和睦し、武装解除されました。本願寺の寺院は浄土宗に改宗され、本願寺坊衆は家康領地から強制退去されましたが、在俗門徒の信仰までは問いませんでした。家康は反家康勢力を三河から一掃し三河領統一を果たしました。朝廷より「徳川」姓を賜り、三河守として従五位に叙任され、守護大名としての地位を築きました。

三方ヶ原の合戦 1573年1月25日

足利義昭の命により、武田信玄が織田信長を討つために信長包囲網を形成し遠江に侵攻しました。家康は浜松城に籠城せず信玄の大軍相手に不利な野戦を挑み生涯で最も惨めな敗北を喫し、「勝ち戦だけを知り、負け戦の対処法を知らないのは身の破滅である。」そして撤退戦の難しさを学びました。 今川から得た遠江は武田に奪われ領土は三河のみとなったのですが、1573年信玄は伊那の駒場で倒れ、勝頼が後を継ぐことになりました。

長篠の戦い 1575年7月9日

信玄の後を継いだ勝頼は三河進出を狙い、それを防ぐ徳川・織田連合軍との戦が勃発しました。 勝頼は家康の属城遠州の高天神城を奪い東遠江三河に進出しさらに長篠城を攻略しようとしたのですが長篠の手前 設楽原で信長の鉄砲隊に大敗し、多くの有力武将が討ち死にしました。家康は武田支配の遠江・駿河に侵入し、駿府を無抵抗のまま占領する事が出来ました。強力な織田信長との軍事同盟があったからこそ、 家康は武田勝頼との抗争に戦い抜く事が出来たのです。

時は進み織田信長が1582年本能寺の変にて没した後、家康と秀吉との間で、天下取りの争いが水面下で始まり、家康は浜松城から駿府に移りました。1586年12月4日、家康45歳の時でした。

天正壬午の乱 1582年

信長没後、武田氏の旧領であった織田氏の領地(甲斐・信濃・上野)を巡る、家康と北条との争乱で、信長の次男織田信雄が仲介し甲斐・信濃は家康が、上野は北条が切り取り次第として和睦し、家康の娘・督姫(すけひめ)を長子北条氏直に嫁がせて徳川と今川との同盟関係を築きました。

1.2 五ヶ国統治時代 1582-1590年

駿府を拠点として五ヶ国「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃」を統治する五ヶ国統治時代で家康は統治される側に眼を向ける構造改革を行い、領地支配を確立しました。

五ヶ国総検地

武田が滅亡し治安が不安な村々に対して基本的には秀吉が行った太閤検地を上回る優れた五ヶ国総検地をおこないました。 それまで土地台帳には複数の名義人が記載され田畑の所有者を曖昧にし、身分や支配関係で田畑の所有権を握っていました。太閤検地は田畑を耕作する人だけを所有者として土地台帳に記載した事により、荘園制度が終焉しました。 五ヶ国総検地も耕作する人だけを土地台帳に記載する事では同じですが、村役人(名主)が土地管理者となり村役人が責任者となって村全体の年貢高を領主に納める村請制で、村人の結束が強まり郷村社会の自主性が高まりました。 

太閤検地と五ヶ国総検地

検地目録は石高を示さず、自然災害や戦等があった場合等実情に合わせた控除をもうけて年貢高を算出する柔軟な年貢制度でした。 検地が終わると、検地奉行は年貢や賦役(軍事・お上の御用等)基準などを示した7箇条の約定書を交付しました。約定書は最初に「」と書かれ、そこには家康の「福徳」が押されており、約定の終わりには「もし地頭が理不尽な事を申し出た時には訴状をもって申し上げる事」とありました。

家康 七ヶ条定書

福徳 「定」の文字に押された家康の朱印                                                              代官 大久保忠左の名と花押  

戦時や賦役による農民負担軽減

 戦時には石数に応じて馬、人足の提供が定められ、人には扶持米1日6合、馬には1日1升の大豆を地頭が負担する事が定められています。       地頭の賦役であれば年間10日、代官であれば3日と定め、扶持米を戦時の賦役と同じ基準で負担する事が定められていました。

 これまで戦時の調達の定めはなく、支配者が好きなだけ人馬を調達していました。給付はなく戦に勝った場合、相手の村の財産・人の強奪を認める「乱取り」がこれまでの慣例でした。家康は給付する事により強奪をおこさせないよう定め、領地支配を円滑に行う配慮をしていました。

1.3 小牧・長久手の戦い 1584年

畿内を手中にした羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間の戦いです。

信長の没後信長の影響力を排除したい秀吉は信長の次男織田信雄の居城であった安土城を退去させ、以降信雄と秀吉の関係は悪化しました。秀吉は信雄の家老を懐柔しようと試み、信雄は親秀吉派の家老を処刑してしまいました。これに激怒した秀吉は信雄に対し出兵を決断しました。信雄は家康と連合し、紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、織田・徳川陣営に加わり羽柴包囲網を形成し北陸、四国、関東においても合戦が起こる、東軍・西軍が衝突する関ヶ原の戦の前哨戦のような全国規模の戦役となりました。  ところが信雄は領地の伊勢・伊賀を攻められて、秀吉が伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れると信雄はこれを受諾し、事実上の降伏でした。信雄が戦線を離脱すると、戦の大義名分を失ってしまった家康は三河に帰国し、家康と秀吉は和議を行い家康の最年長の息子於義丸を秀吉の養子として差し出しました。秀吉は雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親を打ち破り紀州と西国を平定し秀吉の勢力は増し、その分家康の勢力は後退しました。秀吉と対抗するには北条との絆を強める事が重要となりました。

1.4  秀吉の天下統一事業

 1585年秀吉は信長が得た右大臣を越えた従一位関白に就任し、家康に対して圧倒的に政治的優位な立場に立ったのですが、秀吉の上洛要請に応じないが対抗する姿勢も見せない曖昧な態度を取り続けていました。

 秀吉は異父妹の朝日姫(佐治日向守の妻であったが離婚させた:御年44歳)を家康の正 室として嫁し、さらに生母の大政所を人質として送り、遂に家康は上洛し豊臣秀吉に臣従する決意し上洛し秀吉に臣従しました。。

 秀吉はまだ恭順せぬ北条との同盟を終らせる事を示唆し、家康に北条を恭順させるよう命じました。家康が恭順し東の脅威がなくなった秀吉は1587年九州を平定し島津の薩摩・大隈以外の領土を没収し西日本における天下統一は完成しました。 1588年に大名間の私闘を禁止する惣無事令(そうぶじれい)を発し、聚楽第(秀吉の京都の邸宅)に後陽成天皇を招き、諸大名を集めて秀吉への服従を誓う起請文を提出させました。 

 しかし北条は上洛には応ぜず家康の説得で起請文を提出し北条家当主の弟氏規(うじのり)を秀吉にお目通りさせたので、北条はこれで落着したと考えていました。しかし真田と北条の紛争に対して秀吉が下した裁定に逆らうような北条の武力履行は惣無事令違反と看做されてしまいこれが小田原征伐の口実となったのです。これが小田原征伐の口実となったのです。

関東江戸風土記 リターン

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