語り 公文真理子さん 公文クリニック医師
聞き書き 勝野井央子 稲田郷土史会&かわさき聞き書き隊
2022年4月5日
かって旧多摩区役所の隣に、井口内科医院があった。
公文クリニックの公文真理子先生は故井口先生のお嬢さん、つまり2代目。
公文クリニックの現院長、公文大輔先生は息子さん、3代目である。
公文クリニックは、水曜日休診で、診察日の週5日のうち
月、木、土を大輔先生、火、金を真理子先生が担当されている。
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生まれ育った自然いっぱいの昔の登戸を、懐かしむ事しきりであった。
医院の歴史
昭和20年12月、父が、旧多摩区役所(1969~1995)に隣接する地で井口内科を開業しました。
父は新潟出身、明治44年生まれの頑固者。
よく「井口先生は怖かった」といわれますね。
母は枡形の医者の娘で、やはり医業を習得した人でしたが、父の助手や看護婦の代わりをしていました。
当時、このあたりの内科は岡野医院、稲田登戸病院があったくらいでした。
稲田登戸病院は、結核患者の療養に適していました。空気がきれいでしたから。
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当時は、今のように救急外来が無い時代で、とても忙しかったです。
夜中の急患や往診も多く、往診はスクーターで行ってました。
私も後ろに乗せてもらって一緒に行ったことがありましたね。
私は、5人兄弟の3番目で、弟が母方の叔父の後を継いで、今、土淵で歯医者をしています。
平成7年、今の区役所の建て替えの時に、区役所の向かいに移転し、公文クリニックを開業しました。
母は、昔、この辺りが沼だったことを知っていて、嫌がりましたね。
井口先生は、以前、日曜日の午前、診察をしておられましたね。
父は、働くのが大好き、勉強が大好きで、心電図の解析や、レントゲンの現像を夜に楽しそうにしていましたね。
開業医の心得
私は女子医大を出て、慈恵医大で研修しましたが、よく言われたことは、
「病気を診るのではなく、病人を診なさい」でしたね。
これは、開業医にとって特に大切なことです。
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医者は、人間を診る、観察をするわけですが、今、医学が進歩して楽になったというわけでもなく、その習得もたいへんでしょうけれど・・・
心臓の診察も聴診器や打診をやらなくなったでしょう。
もう、大学で教えなくなるかもしれないですね。
患者の観察といえば
筆者は、井口先生に「あなたは、悩みがあるんじゃないですか?これを飲んでごらんなさい」と、薬を処方して頂き、それからすっかり生活が楽になりました。
「井口先生は名医だと思わない?」と知り合い
「井口先生は本当にいい先生でしたね」と待合室で隣り合った方
私も同感。感謝しております。
そういう方々が、真理子先生につながっているんだと思います。
それは、初めて聞きました。
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医者は,産婦人科の希望者が減ってるんです。時間が拘束されるからですかね。
都会に多く、田舎は少ない…偏在してるんです。
登戸も、発展を見越して病院が増えたでしょ。
真理子先生の昔話
昔、このクリニックの場所は公民館が建っていました。
舞台があり、妹が歌ったことなんか思い出します。
ニュース映画、ウッドペッカーの漫画など、楽しみました。
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登戸小学校は、歴史が古く、明治初年に学問所としてスタートしたんです。
木造3棟。大きな桜の木があったイメージです。
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この辺りは梨畑が多く、4月には、一面、真白い花できれいでしたね
区役所の前…今、大きな道路になったところには、小川が流れていて、ザリガニやメダカを取って遊びました。
田んぼのカエルの声、梨の木のセミの声がにぎやかで・・・
多摩川の河川敷では、ブドウ栽培もされていて、ブドウ狩りをしましたね。
今は、暗渠になっていると思いますが、新川のところで蛍狩りをしました。
そこで、泳いでいましたね。母も子供のころ泳いだと言っていました。
冬には、氷の張っている切り株の田んぼで凧揚げをしました。
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駅から向ヶ丘遊園まで、桜並木で、外側に絵が描かれた屋根付きのトロッコ電車が走っていました。前方には猿が乗っていましたね。
のちにモノレールになり、バラ園、プールにも行きましたね。
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お祭りの多いところで、お神楽っていうんですか、笛や太鼓、踊りがにぎやかで、楽しかったですね。
秋祭りの時、大きな笠を被った人が家の庭に入ってきて怖かったのを覚えています。
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家には井戸がありました。
庭には、桃、イチジク、柿、玄関前にはプラタナスの木がありましたね。
中学、高校は遠くに行ったので、子供のころの印象が強いです。
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昔の登戸は、自然がいっぱいでしたね